恋リア研究メモ7(今期オオカミメモ)


 「運命の人」と言うとき、その対象に得恋するか失恋するかはまさに「運命的」な結果ではあるが、たとえ失恋したとしても諦めるか想い続けるかは主体的に選択できる。しかし「運命の人」その人は、自身が相手にとって「運命的」であることを拒否できない。オオカミくんシリーズにおける「オオカミ」も、この「運命」に似た立場にあるように思う。
(もちろん後述の話とは違って、「運命の相手」はそう呼ぶ相手を振ることはできる。しかし「自分は運命ではない」と言い張ることはできない。この不自由さが、さらに「オオカミ」や「アイドル」の恋愛禁止においてはより強化される)

 オオカミくんシリーズの始まった当初は、はじめから嘘をついて騙す「オオカミ」をどう見抜くか、というアングルを取っていた(今でもコメンテーターたちは、開始当初はそのような見立てをすることになっている)。しかしラストでは、「気持ちに正直に行動した」「オオカミでなかったら本当に好きだった」のような描写に、つまりは「オオカミ」という呪いが障害となるという話に帰着する。
 ここで見えてくるのは、シリーズの根本である「オオカミは恋愛禁止」というルールは、実際は「オオカミは相手を好きになることはできない」ではなく、「オオカミは相手を振ることはできない」なのではないか、ということだ。告白シーンで、オオカミだったから実らない(風船を離す)ということはもちろん起こる。しかし、「オオカミではあるが、もしオオカミでなかったとしても、想いを受け取ることはできない」ということは、原理的に描写し得ない。「相手を騙して告白させる」ことが目的(とされている)以上、オオカミの側から、オオカミであるという理由とは別に断ることは許されていない。その時点において、オオカミを割り振られた者は、人間ではなく自動的な/不自由な「運命」へと変わってしまっている。
 そういう意味では、オオカミくんが「運命」となるのはあくまでラストの告白シーンだけで、それまでは「気持ちに正直に行動した」と言うようにまだ「運命」に100%換わってはいない。シンデレラタイムのような描写を考えても、SFやファンタジー作品にあるような、近いうちに人間ではないなにか別の存在になってしまう相手と、それでも最後まで気持ちを交わしながら残された日々を過ごしてゆく、みたいな感覚も「オオカミくんシリーズ」にはあるのかもしれない。

 シリーズにおいてこれまでオオカミの「失格」は、自身がオオカミであることを打ち明けてしまったためというルール違反だけがあった。しかしそもそものルールである「オオカミは恋愛禁止」を考えると、違反はもう一つ考えられる。ラストでオオカミであることを明かして、その上で「人間として」相手を振る。想いに応えないという「恋愛」をしてしまうことで、「恋愛禁止」のルールを誠実に破る。そういった描写がもしかしたらいずれ現れるのかもしれない。

三原順『はみだしっ子』から引用するなら

握手って…手を握ってそして…離すだろ
手を握るために握手するなら…手を離すために握手することもあるだろう?

 オオカミくんシリーズが達成しうるものとしてもしひとつ挙げるならば、「恋愛禁止」という語を、作品構造そのものが上記のようなひとつのロジックとなって反転/解体する、というところにあるのかも。


 二人でマンションから出てきたり並んでスーパーに行ったり、そういった場面の写真を雑誌に掲載されて、「交際しているわけではない」と言ってもそのままには受け取られず、あるいは逆に「交際している」と口にすることもできない。アイドルの「恋愛禁止」は、「恋愛してはいけない」「交際してはいけない」というよりもむしろ、「感情の主体が、先ず自らの感情を名付けるという権利を剝奪されている」とする方が近いように思える。「運命の」という語もたびたび冠されることもある「アイドル」は、やはり前述した「運命」のような不自由さを持つ。


 「絶対に恋しない」という呪い。けれどよくよく考えると、『オオカミくん』シリーズひいては恋リアには別の呪いが潜在する。『オオカミくん』シリーズに登場する「オオカミくん」だけが「絶対に恋しない」のではなく、「オオカミくん」を除く全員が「絶対に恋をしなくてはいけない」。一人だけが呪われているのではなく、その一人以外すべてが恋リアというシステム自体に呪われている。

 シリーズ最新の「恋オオカミ」では、投票で脱落したメンバーが、シンデレラタイムの権利を使わない(相手を指名しない)という描写がされる。最後まで想いに悩んでいた自分に使う資格は無い、という告白に対し、一人のメンバーが脱落者を逆指名して「シンデレラタイム」を行う。
 以前に書いた上の引用を、前半の議論によってアップデートするならば、オオカミ役が「恋愛禁止」を課されるように、他のメンバー全ては「絶対に恋をしなくてはいけない」という別種の「恋愛禁止」=「感情の主体が、最終日においても感情に名付けを行わない、という権利の剥奪」を課されているともいえる。そう考えると「脱落投票」は逆に、恋リアと言う恋愛強制=恋愛禁止システムから、視聴者がたった一人を選んで救済しようとしている、と見てもいいのではないか?
 最も「オオカミ」として怪しい、つまりは最も主体的に「恋愛」しようとして積極的に動いている、最も「恋愛」に実直に惑い揺れている、そういったメンバーをコメンテーターは「オオカミでは?」と煽り、視聴者は疑う、その結果として「恋愛禁止」の呪いを解いた「恋愛」をさせようとしている。恋愛リアリティショーという不自由のなかで、恋愛という自由を得ようともがいている者を、「オオカミ」として名指すことが「脱落投票」の肝としてあるのではないか。
(前述のように、オオカミが「運命」のような不自由さに張り付けられるのは最終日のみである。だから脱落投票の場面においてはオオカミはオオカミそのものにはまだ換わってないし、オオカミであるかどうかもそもそもその時点では関係がない。だから視聴者はルールを逆手に取って、オオカミであっても無くてもたった一人だけをこのシステムの「外」へ逃がすことができる。)
 そして脱落メンバーは最後に一人を選び、手を取って「シンデレラタイム」という、最終告白の場を免れた時空にひととき連れ去る。しかしそもそも「シンデレラタイム」もまた、オオカミくんシリーズで決められたルールではないか……? その疑問をさらに解体するように、今期「恋オオカミ」での資格放棄→ルール外の逆指名が描写されたのかもしれないとも思う。

 恋愛が先かシステムが先か、つまりは、恋愛というシステムなりイデオロギーが先にあるがゆえに、本来さまざまな行く先のあった私たちの関係性が一つの形式に収束させられているのではないか、という話はもちろん古典的な議論ではある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?