恋リア研究メモ4

 『ポストドラマ時代の創造力』を読んでいるのだけれど、演出家のロメオ・カステルッチが、作中の「私は〇〇です」と「私の名は〇〇です」という台詞の違いを述べていた。

 私が「私の名はカステルッチです」と言った場合、この名前が私にとって異質なものであること、別の誰かによってこの名前が私に与えられたことを自ら認めることになります。(中略)冒頭の場面で私は自分の名前を名乗った直後に犬に襲われます。これも名づけられることと現実との強烈で暴力的な関係を示しています。人間はこの世に生まれ落ちてきて、名前を得た途端にすぐ攻撃されるのです。

 再度引用するが、「リアリティーショーにおけるリアリティーとは何か」という問いに対する回答の一つとして。

 答えはシンプルで、キャストが本人としてそのまま参加していることにあると僕は考える。多くの場合、キャスト達はInstagramやTwitterといったSNSアカウントを持っており、我々視聴者との距離感は非常に近い。それゆえにリアリティーショーはキャストの実在性によってリアルさが担保されているのである。


 アイドルグループのメンバーのSNSアカウントは、しばしばそのグループ名に由来した文字列が半角英数字の中に入る。AKB48のメンバーであれば、「48」を入れるメンバーが多い。またグループによっては始動の際、たとえば「PQR」のようなグループ名なら「xxxxx__PQR」のように、メンバーアカウントの末尾を統一した文字列にしていることも多い。アイドルであることが名前に刻印されているとも取れるし、一つのアカウントに個人名とアイドル名の二つを課しているとも言える。

 「有名税」という言葉は、一見「名前が世に知られていること、によって課されていること」とも取れるけれど、実際は「名前を所有していること」に近い感覚がある。アイドルのスキャンダルが叩かれながら、しかしその人のそれまでの活動をほとんどが知らず「人気グループのよく知らない誰か」であるという状態はしばしば起こる。
 不倫や二股といったことへの倫理的な批判は、通常は個人間か内輪程度で収まる。しかし何らかの「名前」を得てしまうと、それは全く知らない人からも向けられることになる。町ゆく無名の人がトラブルを起こすのと、その人の頭上に名前/アカウント名が浮かんでいるのとでは、炎上の度合いが異なる。「有名人」は単に、頭上にアカウント名が無くても顔や姿と名前が紐づいているというだけだ。
 そしてその「名前」は初めに引用したように「別の誰かによって与えられた」「異質なもの」だ。その人個人と不可分なものとして見なされ課される(所有することを強いられる)、そしてその瞬間に攻撃の糸口となる、そのことがただ「リアリティー」と呼ばれる。顔や姿に名前が紐づいた「有名人」でなくても、アカウントがありさえすればよい。

 VTuberをめぐる初期の言説では、生身のアイドルと違って(ちょうど傷害事件が発生したこともあり)身体を持たないことの安全性、という切り口がいくつかあった。2020年までで、それがトラブルの発生を防ぐわけではないという事例はいくつか起こっているように見える。攻撃は名前の所有を契機に行われうる、という上記の話ともつながる。名前からの退却が(それが不本意であるにしても)可能である、という点は異なるかもしれない。48・坂道グループのメンバーは、基本的に本名で活動することを要される。

 アイドルは恋愛禁止である、という言葉について疑問をもつ点の一つは、「アイドルが恋愛している」という例はおそらく稀であることだ。実際に恋愛しているのは「個人」だ。ここまでの話を踏まえてより正確に言うならば、「個人」が「アイドル」となった瞬間に、「アイドルの名前」が「個人」の上にさらに不可分に課される(所有することを強いられる)ことによって、「有名税」的な攻撃のチャネルが複数となり、ちょうど住民税と別に固定資産税を課されるように「恋愛禁止」が乗る。そしてそれを明示するために「xxxxx__PQR」という「個人名とアイドル名の二つを課した」アカウントが窓口としてある。

 『オオカミくんには騙されない』シリーズにおいて、「オオカミくん」は「絶対に恋してはいけない」者とされる。しかし作中で実際は思いを振り切れなかったり、打ち明けてしまって失格となったりする。けれどこれらの行為について「恋愛禁止」だから、と叩かれることは想定しづらい。
 一方で例えばバチェラー3期では、恋愛規範の逸脱に加えてゲームルールの逸脱に対しても出演者への相当な批判があった。他の恋リアでも、恋愛に消極的だったりと番組の本義に外れることへの批判がたびたび起こる。恋愛リアリティショー出演者はアイドルと逆にルールあるいは番組趣旨上の「恋愛必須」を課されていて、やはり複数の「名前」と不可分にみえる。
 しかし恋リアにはたびたび、現役または元アイドルが出演し、それでも「アイドルの名前」は名残のように所有するので、ファンによっては複雑な心情を吐露することも見られる。もしそれらが一連のアカウント文字列であるなら、その中ですでに論理的矛盾が起きている。そう考えると「オオカミくん」はこの矛盾をあらかじめ作中(ルール中)に組み込むことで、名付けられることの暴力性にバグを発生させる装置としているのではないかともいえる。
 以前にリアリティレベルの混在という説明もしたけれど、単にフィクションの役柄と役者といった形式である場合は、それは上記の「名前」とはならない。役でどんな不貞を働いても、役の名前を役者が所有しているわけではない。「キャストの実在性」と回答されたように、リアリティショーというのが本来課されないはずの「名前」を当人に加えて課すことを「リアリティー」という新規性として講じたシステムであるならば、道義的な問題の噴出を(アイドルカルチャーの状況も踏まえつつ)論ずるために、「オオカミくん」分析は手段となるかもしれない。「オオカミくん」もフィクションの役と同様に「名前」とはならないが、それは「名前」を課されるシステムに組み込むことができる。

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