恋リア研究メモ5

(いつものようにあんまりまとまってないですが)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/68/1/68_102/_pdf

より以下引用

 さて,以上,ミード=ブルーマー,ベッカー,ゴッフマンの議論を経ることで「自己」について考えるために蓄積されてきた半ば理論的で半ば経験的といってよい概念の変遷や力点の変化を確認してきた.まず,私(I),役割を担う対象としての「自己」(=me),対面的相互行為で自己や相互行為を支える「人格(人物)」,そして人格の評価を支える「パーソナル・アイデンティティ」,人的評価を具体的に左右する「経歴」や「生活誌」.

 「役割」は相互行為ごとに立ち現れるもので、複数持つことができるが、「生活誌(バイオグラフィ)」は一人にひとつのものである、とある(らしい……まだ原著読んでないのであくまでメモ書きにしかならないのですが……)『スティグマの社会学』の論点は、リアリティショーとしてのアイドルと恋愛リアリティショーとの相違点としても使えるのかもしれない。
 例えばアイドルドキュメンタリーで描かれる「加入したばかりなのにセンターに選ばれて戸惑い、必死に努力しつつも自分の未熟さに悩む姿」と、恋愛リアリティショーで映される「思いが伝わらず落ち込むけれどどうにかして自分に目を向けてもらえるよう信頼を築きアピールを試みる姿」といったものは、同等の「葛藤と克服」のいちエピソードとして扱うことができるのだろうか? アイドルであることはあくまで個人のひとつの切り口、「役割」であることは共通認識としてある。前者のエピソードはその「役割」を研鑽するための過程で、アーティストの作品づくりやスポーツ選手の訓練と近い。しかし「恋愛履歴」のようなものが、もしある一つのコンテンツとして残された場合、それはそこに捧げられる「葛藤と克服」も含めて、直接に唯一の「生活誌」に書き加えているものである。

(しかしここに挿入的に追記するなら、アイドルがアイドルであるためには不断の研鑽と所属意識を要する、という成長物語的な要請が「パーソナリティ消費」にオプションとして載せられている、という問題がある。たびたび「一員であることに甘んじて」「グループの前進に貢献しようとする意識がない」みたいに批判される、その根拠はそもそもどこから生まれてきたのか、アイドルはアイドルであるだけでよいのでは? という問いはいつでも持っていきたい)

 「パーソナリティ消費」という語はすでに、アイドルやリアリティショーの出演者へ向ける視線に対して使われ始めているけれど、もしかしたら後者は上記の議論によるならば「バイオグラフィ消費」としてさらに区別する必要があるのかもしれない(またそれまでアイドルについて「パーソナリティ消費」とされていたものの一部も、それが上書きできない「一人にひとつのもの」に関わるレベルであれば、後者として切り分ける必要があるのかも)。パーソナリティはバイオグラフィの積み重なりの最前線にある一断面でもあるので、その切り分けがそもそも有効であるのかの議論も含めて。
 この辺は『恋リア研究2019-2020』でも以下のように書いた、「バイオグラフィをディスコグラフィの代替として提示することしか、ひとまずの手段として取りえない」という話ともつながる。

 リアリティショーとは、まだ何者でもない人が恋愛の挫折や経験を通過し、何を考え、どのようなことに迷いそしてどんな選択をするかという一つひとつの挙動を見せることで、タレントとしての奥行きや質感を得ることができるシステム、つまりは出演者こそが「リアリティ」を獲得するシステムだと定義づけることができるだろう。タレントのプロフィールにドラマやCMの出演/モデル掲載の経歴に並んで、恋リア作品への出演が書かれることも今では普通となっている。人生経験がタレント性の裏付けに(バイオグラフィそのままの意味に)差し出されるようになることは、まだ批判の必要があるだろう。しかし特に同世代のファンにとって、紙の上や画面上の存在がよりヴィヴィッドに立ちあがるために、「恋リア」が非常に優れたシステムであるのも確かだ。



 そういえばテッド・チャン『息吹』に収録されている「偽りのない事実、偽りのない気持ち」がまさにライフログの話で、上記の論文で言う「人格的評価や信用を失墜させるような生活誌上の経歴を操作し,露見するのを回避しようとする動機付けがはたらく」みたいな話だったような。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」では、新たなライフログ検索システムによって、父親と娘の関係に新たな光が当たり、父親はみずからの子育てをふりかえることになる。

 もちろんこれは『テラスハウス』の、「メンバーが数週前の『テラハ』の配信回をみんなで視聴し、その感想を述べるシーンまでが『テラハ』内で放映されている」という「異常さ」の話とも繋がる。

 テラスハウスでの収録は1年にわたる。つまりは、メンバーがテラスハウスにいる間に、常に『テラスハウス』の配信がされている。それをメンバーがたびたび観ている、という仄めかしは今までもされていたのだけど、34話では実際にメンバーが配信を観ている様子が映し出される。スタジオレギュラーが辛辣なコメントをするのを見ながら、メンバーは自分について「性格悪すぎだよね」「客観的に見たら友達にしたくないよね」と言い、他のメンバーに改善をアドバイスされたりもする。


 ところでオンラインお話し会(ミーグリ)のシステムが、予想したように、メンバーが見る画面でファンの横に設定した名前(ニックネーム)が表示されるものだったので、握手会というシステムがよく言われているような身体的接触の是非よりも、むしろ「認知」のような語で、記憶に侵襲しているか否かをせめぎ合いの前線としていることが問題なのではないか、という話が、もしかしたら重要ではなくなるのかもしれない。(という話をしそびれていた)

 ファンが現れる前に、ログとして記録された「お話し」が補助としてサブ画面に表示されるみたいな機能が将来さらに追加されることでそういった負担が軽減されるなら、つまりは記憶の代わりに記録があるのなら、「自己」のレイヤーを侵襲的に越えた「直接の書き込み」のような消費にはなりづらくなる利点があるのではないか。というのも『息吹』を読んだ感想だった。



 バラエティのドッキリ番組で、例えば椅子の足が折れるとか風船が破裂するとかした時に反応を見る、といったものは、予測できない瞬間の事態への生理的反応のことで、あくまで「現在」しか問題とされていない。けれど委員長(月ノ美兎)のホラーゲーム初見プレイ実況を見た時、そこで発生している生理的反応は、それが以前に経験されていないということも前提として含まれていて、つまり現在と同時に「過去」も問題とされているのではないか、というのが初めの疑問点だった。
 VTuberの「中の人」「魂」といった話をする際、それはあくまで「現在」そこに(台本やプログラムでない)不測への生理的反応を起こす存在がいるという話か、もしくは「過去」を問題とするにしても趣味やパーソナリティ(ガワのキャラクターからはみ出す「中の」パーソナリティではあるが)といった一度消化され定着したものが多いように思えて、もう少し議論を調べないといけないなと思ったことを憶えている(そして結局進んでない)。よく使われる「前世」という語が「生活誌」とどう相違するのか、も考えないと……。


 この一連で言う「バイオグラフィ」は(まあ原著読んでないのであくまでメモ書きでしかないけど)、例えばけやき坂46が演った『あゆみ』の冒頭の台詞がそもそも私的なイメージとしてあるのだと思う。

えーと私は、一生に、だいたい1億8千万歩ぐらい、歩きます。スキップとか、けんけんとか、お墓参りとか、扇風機の首を追いかけたりとか、お店に並んだり、デートしたり、夜中、喉が渇いてコップの水を飲んだり、そーゆーの全部合わせて1億8113万1982歩、です。それが多いのか少ないのかよくわからないですけど、そう思うとずいぶん遠くへ来たもんです。振り返っても、もう何にも見えないですけど、

https://www.mamagoto.org/drama.html

今だったらむしろこっちの話が関係あるのかも。


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