「アザトカワイイ」とは何かメモ

 定延利之『コミュニケーションと言語におけるキャラ』を読んでいるのだけど、コミュニケーション行動と意図について以下のような文が出てきた。

 人間は社会的な動物であり、日々、群れの中でお互いを評価して、他者から下される評価に舞い上がったり落ち込んだり、一喜一憂して生きている。他者からの評価にはさまざまなものがあるが、ここでそれらを技能評・作品評・人物評と3つに大別する
(中略)
人物評は「意図となじまない」という特質を持っている。たとえば、「あの人は豪快な人だ」と皆で言い合っていたところ、それを聞きつけた当人がやってきて、「そうでしょう。私は、これをやったら豪快と思われるか、あれをやったらどうかと、いつも考えて、意図して振る舞ってきたんです」と言えばどうなるか。その人物の「豪快」評は木っ端みじんである。
 これが技能評ならそうはいかない。「あの人の歌はうまい」という技能評は、たとえ当人が「そうでしょう。私は、歌だけはうまいと言われようと思って、カラオケ教室にも通って、頑張ってきたんです」と白状しようとも、傷つかない。うまい歌は、うまい歌である。(中略)作品評も技能評と同様である。

 2020年よりテレビ朝日系で始まった番組「あざとくて何が悪いの?」は、男女の、相手に好感を持たせ好意を引き起こす意図的なしぐさについて、再現VTRやトークを通じて掘りつくすバラエティと言える。背景には「あざとい」という語が、テレビや雑誌等のメディアにおいて以前ほど悪いイメージでなく、むしろ積極的な戦略として捉える流れがここ数年で起きていることがあるだろう。
 上記の引用に従えば、「カワイイ」(好感や好意を起こす言動)における「あざとさ」(積極的な意図)の有無が、元の評価を毀損しないのは、それが人物評から技能評・作品評に移りつつあるから、と説明できるのではないか。番組が「あざとさ」のテクニックを講評し、テクニックを示すVTRを「作品」として視聴者とともに享受するという形式になっているのもそれを裏付ける。
 「アザトカワイイ」ブームの前提として、アイドルがファンの好意を引き寄せる「釣り」という用語もあるが、この語自体も技能にまつわるものだし、「ファンそれぞれの特徴や会話内容をノートに付ける」「握手会でより長くファンと会話できるよう移動する」といったTIPSの紹介も技能に関わるものだった。アイドル受容としては、人物評が技能評にとって代わられることは、人格ではなく職能としてアイドルをとらえることで当人の負担を和らげる利点があるとも言えるかもしれない。

 テレビ東京系の日向坂46のバラエティ番組「日向坂で会いましょう」ではたびたびこの「あざとい」ぶりっ子に焦点を当てた回があり、その技能について「プロ」と呼ばれるメンバーも現れる。ここ最近で印象的だったのは、メンバーのしぐさについて「天然」「やってる(意図的)」と新たに評価軸を作ったとあるメンバーが、その後の回でそういった評価軸について「メンバーみんなが被害に遭っている」と吐露した回だ。
 ミーグリ(スマートフォンアプリを用い、オンラインでファンとメンバーが一対一でテレビ通話できる特典サービス)でメンバーに「ぶりっ子」的パフォーマンスを要求したファンから、そのすぐ後に「やってる」と評価されるというやりとりがよくある、と彼女は話す。もちろんそれはファン側の配慮の無さゆえなのだけど、これは上記の引用に従うなら、当該番組(あるいは当該グループ)においてはもともとは技能評・作品評であった「ぶりっ子」が人物評に引き戻されてしまった(という思いもよらぬ副作用があった)、という問題であると言える。

 ブームに乗ってなのか、2020年には日向坂46の1stアルバムのリード曲として、秋元康は「アザトカワイイ」という曲を書き下ろしている。しかしその歌詞は現状の流れに即しているか疑問に思える。「意図的なのかもしれないしそうであっても『釣られて』しまっているけれど、意図的でなければもっと好感が持てる」といった、つまり、技能評・作品評としての「アザトカワイイ」をどうしても人物評に引き戻したがっている受容側の意識が透けて見える。


『コミュニケーションと言語におけるキャラ』の本旨からはこの議論はちょっと外れていて、例えば「日向坂で会いましょう」で出てくる「別のワレ」という話のほうが定延氏の「キャラ」論には合致しているかも。

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