付箋とペンと芝生

「まちづくり」ワークショップならではの難しさについて

2014,15年は、いろんな地域でワークショップの機会をいただきました。福祉について、新しい視点で考えるべきフィールドの1つは「地域」なんじゃないかなぁと漠然と考えていたら、ご縁をいくつかいただきました。インクルーシブデザインの手法が、まちづくりの分野でどれくらい活かせるだろうか、ということを考えながら、1つひとつ全力でがんばらせていただきました。今日はまちづくりのワークショップの経験で気づいたことメモです。

たまたま、立教大学の舘野さんが書かれたブログから、たまたまFacebookのコメント欄でまちづくりのワークショップについてやり取りになったのを機に、ちょっと過去の実践を振り返り。

ワークショップに参加してくれる多くの方は、企画の意図などを広報で知り、それを見て共感してくださった方が、主体的に申し込んで参加してくださることがほとんどだと思います。学校の授業とは異なり、「参加者はある程度こちらの趣旨を理解してくれている」という前提で、その場をスタートしやすいことが多いです。

一方で、地域のワークショップ、まちづくり系のものであれば、「地域がこうあってほしい、この要望を達成してもらうためにこの場がある」と、参加者が具体的に考えを強く持って参加している場合が多くあることがわかりました。特に、年配の参加者集まるとより強く感じられることもしばしば。その地域への思いが良くも悪くも強すぎる場合があって、若手の参加者が萎縮してしまうこともあるようでした。

行政の方々ともお話をしてみると、できるだけ幅広い年代で、まちの未来を主体的に考えてくれるような人に参加してもらいたいと思っているようです。そこで参加者募集をすると、情報を市報や区報などに載せることに留まることも多く、一応「全ての人に平等に情報を伝えた」ことにはなっている。とはいえ、本来来てほしい人がそれらを見ているかは別物。意図的に誰かに声をかけることが、「平等ではないのでよくないのでは」と思ったりもするようです。(そんなの、なんちゃら検討委員会で特別な人に声かけたりするんやから、同じやーん!と、市民庶民な私からすると思っていたけどどうなのだろう)

もちろん、こちらとしては広報からどうあるべきかから、一緒に考えたいと思う一方で、そうした介入ができないことも多く、悔しい思いを感じたりもしました。参加者との最初のコミュニケーションの機会なのに、もったいないなぁ、なんて思ったり。

ワークショップの本来の意図から考えると、行政市民一体でまちの未来を考えてくれるパートナーのような人に参加してもらいたい。しかし闇雲な広報の結果、行政への不満をぶつけてくるような人ばかりが集まる。結果、ときどき炎上する…ということもあるようです。いやはや、まちづくりって、難しいね!

何はともあれ、まちづくり系のワークショップを実施する場合、出来る限り参加者の強い思いを潰さずに、こちらの準備した意図が、参加者の思いとリンクしているよ、ということを丁寧に説明してゆかないといけない(それも時間をかけて)のだろうなというのが、この2年間の気づきでもありました。そのすり合わせができて初めて、ワークショップの目的、活動の目的を理解してもらえるのだろうな、なんて思います。

まぁでも、こうして考えていくと、炎上する人たちにとって、ワークショップの意図なんてぶっちゃけどうでもいいのだろうとも思うのです。様々な形で自分たちの要望を伝える場所を探してここにいきついたのだろうな、と思う。

うーん、まちづくりのワークショップって、なんのためにあるのだろう。なんかこれこそ闇雲にやるものでもなくて、成立条件がある気がしています。というか、「まちづくり」ってなんだ?ということを、ぼんやり考えています。

舘野さんのブログは下記です。おすすめです。

「グループワークの指示」を行うときに、ついつい忘れがちなのに、重要なものとは?
http://www.tate-lab.net/mt/2016/01/1499.html

(みなさん豊かな気づきをありがとうございました。)

いただいたサポートは、多様な人たちとの関係性が当たり前にある社会の実現に向けて、Collableに寄付します!