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変わってしまうものたちと、それを忘れていく人



 最近、小さい頃から邪魔だなぁと思っていた近所の歩道橋が撤去され、見渡しが良くなり、横断歩道が設置されて便利になった。
 メニューに、口にするのがちょっぴり恥ずかしくなるような名前を付けていた近所の洋食屋はいつの間にか閉業していて、交差点の角にある何度か店がコロコロ変わっていた土地は気づけばもう一年以上更地のままになっている。

 見知った歩道にはいつの間にか自転車通行部分が出来ていたし、マンション横の高架下で夜な夜な進んでいた工事が終わって綺麗に整備された歩道は、自転車がガタガタと音を立てることも無く、走っていてとても気持ちが良い。

 そしてきっと私は、その内に邪魔だった歩道橋がどこにどんな風に架けられていたのか、無くなった洋食屋の外装はどんなだったのか、整備される前のガタガタの歩道のことも全て忘れてしまう。今までもそうだった。

 日常の中にある風景というものは、特別なものでもない限り記憶には残らない。けれども、それを寂しいと思う。そのうちに忘れてしまうものだとわかっているから余計にそう感じるのかもしれない。忘れないでいたいけれど、生憎私の頭の容量はあまり大きくない。他に記憶しておかなければいけないことが山ほどあって、それでいうと街の風景の優先度はかなり低い。

 それは街の風景に限らず、人間もそうだと思う。大好きだった友達がいつの間にか喫煙者になっていた時は涙目になったし、高校生の時は大人しかった女子が、誰より早く子供を産んでシンママになっていたり、変わっていくもの全てをすぐに受け入れて飲み込むというのはなかなかに難しい。

 しかし、街の風景をいつまでも覚えていられないのと同じように、人のこともあまりはっきりとは記憶できていないのかもしれない。
 大好きだった友達が喫煙者になってショックだったのは、私の中でその友達が美化されていただけなのかもしれないし、大人しい子だと思っていたあの子は、もしかしたら当時からそれなりに遊んでいる子だったのかもしれない。
 忘れてしまうことも、忘れた部分を勝手にこちらで補ってしまうことも、原型がぼやけていては、どうしようもないのだ。

 だからこそ街も人も、できることならあまり変わらないでいて欲しい。でも私の思いとは裏腹に、良くも悪くも何もかもが変わってゆく。何もかもが、変わらずにはいられないし、変わったものに上手く順応していかなければ、苦しくなるのは自分自身なのだ。

 いつまでもそこに固執して懐古していても、一度変わったものは余程のことが無い限り元には戻らない。そういうものなのだ。

 ね、寂しい。自分を取り巻くものが変わっていく中で、自分だけが変わっていないように思えるのはただの主観なのだろうか。周りから見れば私も変わっているのだろうか。誰かに、あの子変わっちゃって寂しいなと思われているだろうか。

 もしそうだとしたら、そうだとしても私は元には戻れない。私もまた、変わる前の私を覚えていない。

 変わって欲しくないものは、今のうちにカメラロールの中に閉じ込めておく他に、残しておく術は無いのかもしれない。

 人間も道路整備みたいに、これから工事するから変わるよって看板でも立てて教えてくれればいいのにね。そしたら私は迷いなくシャッターボタンを押せるのに。


邪魔だった
美味しかった
そういえばこれ、いつから?
自転車快適
もう何も建たないのかな

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