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色彩と文化③~AFT色彩検定1級、独学合格への学習法~

こんばんは。

カラースタイルの三好です。

今日は、日本の「色の歴史」についてまとめます。

ヨーロッパ編では色そのものの歴史と、色彩学を分けて書きましたが、

ここでは時系列でまとめますね。


というのは、日本での歴史は長いものの色彩学として学問的に考えられるようになったのは近代以降、明治時代くらいとかなり浅いからです。


では、行ってみましょう♪

古代日本では文字が出来るより前に、色の言葉が存在していたようです。

「アカ・クロ・アヲ・シロ」

「アカ」が明るい光の状態を表し「シロ」は「顕か(あきらか)」という意味なのが面白いですね。


色材としては、顔料を漆に混ぜて装身具に塗られていたようですが「魏志倭人伝」に日本から赤・青色の織物の献上があったと記録があり、染色技術も存在していたようです。

赤は茜(赤根)、青は山藍、黒は木炭、白は貝殻や石灰など。

また「古事記」にもニホンアカネによる赤色の紐や山藍の摺染め模様の衣服についての記載があります。赤色は古代日本人にとって重要な色で魔除けという意味や、呪術的な意味があったのが特徴です。

(新テキストp14図3をみておきましょう。絵や写真が載っているものは出題されやすい内容ですので押さえておくと良いです)


こうして古代から日本には、赤・青・緑・白・黄・黒・茶色の色彩が存在したと考えられています。

600年頃からは、中国から五色(ごしき)「青・赤・白・黒・黄」の考え方が伝わり、のちに陰陽道とも結びつきました。(成田山などで有名な神社の派手色ですね)


7~9世紀、飛鳥から平安時代は中国の唐に遣唐使を派遣し、その影響は奈良の正倉院の美術品に当時を見ることができます。マレー地方の蘇芳(すおう)は希少な薬物で染色としても使われました。


そして色による身分を表す制度が、日本でも起こりました。

飛鳥時代 冠位十二階

奈良時代 衣服令(えぶくりょう)

その後、平安時代の「かさね」にも繋がり「襲の色目」という色彩文化の爛熟を迎えました。

・衣服令・・・ 位階に応じての礼服(らいふく)の色が定められた、紫→赤→緑→青で濃い、薄いの順。昔から紫色は高貴な色であった。(入手困難なため)

ただ中国の皇帝は赭黄(しゃおう)、日本でも天皇は黄櫨染(こうろぜん)や皇太子の黄丹(おうに)、麹塵(きくじん)と決まっており、金色(きんじき)という特定の地位の者しか付けられない服色という規定もありました。

(令和になる時の即位礼正殿の儀で見ることが出来ましたね)


13世紀鎌倉時代になると、水墨画に代表される「わび」「さび」の文化が流行ります。しかし一方で狩野派の画家たちが作る金箔の障子絵のような豪華絢爛な文化も発展しました。


室町時代は代用の色が増えるようになり、希少な色材への価値や意味が下がる。結果、色彩による身分制度が無くなり、広く使われるようになりました。またコチニールカイガラムシやベロ藍など海外から新しい色彩が入ってきた。

・紫草の代用・・・ 似せ紫(輸入が増えた蘇芳を使う)を使っていたが後に黒橡染め(くぬぎの木の実や皮を用いる)になる


江戸時代に入ると藍染めの服(蓼藍染め)がよく着られるようになる。「奢侈禁止令」が度々出され、紫や紅色は高価な色彩の色だと庶民は禁止されるようになる。

その結果、茶色や鼠色のような地味な色がトレンドとなる。

四十八茶百鼠や歌舞伎役者が好んで身につけた団十郎茶や芝翫茶(しかんちゃ)などが人気色が生まれた。


またこの頃流行った浮世絵には、なんと海外の色がトレンドに!

その色はベロ藍(ヨーロッパからの合成顔料プルシアンブルー)、蓼藍よりも鮮やかな発色で伊藤若冲や葛飾北斎が作品に用いることになりました。

明治に入ると、産業革命により化学合成顔料や染料が多く輸入されるようになります。日本画はより明るい色や鮮やかな色、淡い色の色彩表現が増えてきました。油絵や水彩の技法、絵の具も入ってくるようになる。


教育制度が進むにつれて、「色図」という色彩教育が小学校のカリキュラムに組み入れられました。しかし難解なため下火になりましたが、欧米で学んだ白濱徴らの活躍により、日本にも先進の教育方法が取り入れられるようになった。


今日はここまでです。慣用色名も沢山出ているところなので、色を押さえておくことと。こうした歴史背景が2次試験の中で問題を解くヒントにもなります。

最低限押さえたいのは、五色、襲の色目、わびさび、奢侈禁止令といったところですがそれより前の古代のところが、新しい部分なので出題されるのかも、とも思います。


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