意図について

昨日今日と文章を書いている。
昨日から書いている文章には意図があったはずだ。
その意図は、例えば以下のようなものだったはずだ。
俺の思考や作文には典型的な癖があって、その癖があると、自分の中で綺麗と思える文章が書けない。
だから、その癖が出る前に、先回りして、その癖について言及しておくことで、癖の出現を予防しておく。
それが意図なのだとしたら、この文章も、この意図に沿ったものになる。

今回の意図が何であるかというと、意図とは何か、ということについてだ。
これは、動作が合目的的であるかどうかという話ではない。
意図には計画が付き物だが、計画にはどこまで付き合う必要があるか、という話でもない。
動作の結果得られる具体的な成果物と、精神的な充実感についての対比でもない。
単に、意図とは何か、というだけの話だ。

結論から言えば、意図など何もない。
中心がない円が中心に向かって描かれる様を想像できれば、俺が言っていることのほとんどは伝わっている。
円を描くのが俺だ。
描かれた円が、これだ。
これらのすべてを眺めた時、あなたが何を思うかはあなた次第だが、その感想も、俺の意図には含まれ得ない。

あらゆるものがあらゆるものから無関係であってほしいような意図が一つあったとして、その意図を遂げるために必要なものがただ一つあったとすると、実際にはそんなものはないと考えることが正解であることを選ぶような思考形態について考えてみてほしい。
ひねくれているが、間違ってはいない。
その対比として、正直だが間違っている考えというものもある。
もちろん中心は存在しないというのが前提の上での話だ。
ここまでの話を読んで何かが分かったのなら、それはあなたの感受性が豊かだということだ。俺にはなにも否定できない。

だからもちろん、この文章の意図は、意図についてだ。
言い換えると、この文章の意図は、無意味についてだ。

考えてみてほしい。
何か、意味ありげなことを言っている他人がいたとして、その言葉を聞いて、彼は何か意味のあることを言っている、と思う人間がいたとする。
あるいは、理解できないまでも、ところどころ意味が通じる言葉を話している人に対しては、あの人は何か、意味のあることを言おうとしている、と思う人間がいたとする。
けれどもこの場合、その他人は、まったく意味をなさないことを口に出していたとする。
だとすると、その言葉に意味がある、と感じた人間は、無意味なものに意味を見出していたことになるのか?

意味とは、意味それ自体が意味をなすのではない。
意味は、文脈によって規定される。
敵に向かってくそ野郎といえば、お前は糞野郎だという意味になるし、親友に向かってくそ野郎といえば、お前は糞野郎だという意味になる。
同じ言葉、同じ意味であっても、この場合、前者の意味には敵意が意味されているし、後者の意味には親しみが意味されている。
文脈によって意味が規定されるとは、こういうことだ。
そしてもちろん、俺は無意味な言葉遊びをしている。

勘弁してくれ。

要するに、そういうことだ。

いずれにせよ、与太話は続く。
与太話を続けるのは、治郎吉とサダべえの二人組。この二人組、目つきが極端に悪いのは、鍋の芋に毒を盛る、人間を大量に虐殺する、古代文明の遺跡から発掘した埴輪を転売する、糞尿から抽出した毒素を人々の通る道に散布する、などの悪逆非道を極めた男どもであるから仕方ない。人間の所業が一番表現されやすい身体部位は眼筋であるというのは、一部では知られた事実であるからして。
そして与太話は続くのだが、しかし、続く、とはいっても、もちろんこれは江戸時代よりもはるか以前の時代に起きた出来事なのであって、そして今は令和ともいわれる年号の時代なのだから、現代からしてみればそれこそほんとうに何百年もの前の話なのであって、ていうか、そもそも治郎吉とサダべえなどという人物は真正存在したのでしょうか、と問われると、その存在を証明することはかなり困難な類の人物たちなのであって、とはいえ、だからと言って、彼らが存在したはずはないと言い切るのも性急だと思われるのですが……。

あ、はい、それで……。

結局のところ、言いたいことは、以下のようなことです。
『修飾語というものがある。この修飾語というものは、それがなくても文章に意味がなりたつ、そういう文章パーツのことである。と書いたが、おそらく修飾語についてのこの解釈は、日本語文法の定義とは異なった、いうなれば語を独自解釈したものであるから普遍性のある用法ではない。とまれ、修飾語という、それがなくても文章に意味が成り立つ文章パーツがあり、多くの場合、修飾語は無用の長物である。それがあることで、しゅっとすべき文章がしゅっとしなくなる。それがゆえに、修飾語はことごとく省いていくのが好ましい文章作法なのだが、しかし残念なことに、修飾語を省き切らない現実がある。この現実は、私の弱さによってもたらされた現実である。修飾語に存在を許す私の弱さ。まず第一に、この弱さを克服しなければならない。なぜなら、この弱さがある限り、文章には、不要となる修飾語がつきまとい続けることになるのだから』

修飾語のある文章というのは以下のようなもの。
・はい。と、私はまったくもって、そう言ったのであった。そこにはひとつの悲しみがあった。その悲しみというものは、実のところ海のように深い悲しみなのであった。
修飾語が少しある文章というのは以下のようなもの。
・はい。と私は言った。そこには悲しみがあった。海のように深い悲しみであった。
修飾語があまりない文章というのは以下のようなもの。
・はい、と私は、悲しみを込めて、そう言った。
修飾語がほとんどない文章というのは以下のようなもの。
・……はい。
修飾語があまりない文章というのは以下のようなもの。
・はい。

お分かりいただけただろうか。
下から上にさかのぼるにつれて、文章がザコくなる。まったく不要な尾ひれがついて、醜いったらありゃしない。あれらは豚と地獄の悪鬼のあいのこだね。
要するに、文章というものはしゅっとしているにこしたことはないのである。
もちろん、しゅっとしていない文章が好きな人間というものも、世界には多く存在していよう。
しかしながら、俺自身の審美的な基準から言えば、文章はしゅっとしていたほうがザコくないのである。
しゅっとしていない場合、一センチ角の立方体が梱包材まみれのでっかい段ボール箱に入っているような感じがして必要以上に大げさな演出が行われているように感じる。
手のひらに乗る簡単な品物を、あえてクソでかい箱に詰めて送ってくるアマゾンドットコムみたいな感じがしてダサいと感じるのである。
アマゾンドットコムっていうのは輸送トラックの容量を必要以上に圧迫するあの段ボール箱のことなんだけど、言ってることわかる?
書く文章は、芸術的な感じにはなるたけしたくなくて、凝ったり綺麗だったりする表現よりは、簡潔であったほうがいいという基準を俺は採用しているわけである。
もちろん、その採用基準は厳格に守られているとはいいがたいわけなのであって、それはたとえばここまで書いてきた文章を読めば簡単に理解できると思うが、要するにそういうわけなのである。

意図の話に戻るが、文章の意図というものは、あらかじめそれが意図されている場合、その意図通りに文章を組み立てるべきである。その場合、簡潔を旨とする。つまり、ややこしかったり、長かったり、綺麗すぎたり、凝っているよりも、しゅっとした文章にするのが俺にとっての本当である。

けれども、ここから話はねじれるが、文章に意図が存在しない場合というのが、俺の場合にはわりとある。
そういう場合には、明確にするべき意図というものがないのだから、不必要に意味ありげだったり、ねじれていたり、文法的に不明瞭だったり、あるいは矛盾しているべき、という基準を、俺は採用している。

そういうことを言いたかった。

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