会話

文庫本のコーナーを通り過ぎて長い店内の中央へと進み、中古ゲームの棚に差し掛かった時だった。左前方に赤紫色の発光を見た。それはテレビ画面の光で、カセットが詰め込まれた棚の真ん中ほどに埋め込まれた試遊台のようだった。

少し白みがかったマゼンタの空間。そんな画面の中央より少し下に、粗いドット絵の黒電話が一台浮かんでいる。それ以外には、題字も、『PRESS START』の文字も見当たらない。死んだように静止した電話と、テレビ自体が発するジィーという響き以外は何もなく、静まり返った店のどこかで本を棚に戻す音や、すり足でずりずりとうろつく音だけがなんとなく聞こえている。

ふとコントローラを手に取ると、突然「ジリジリジリ」という大きな音がして俺は身をすくめた。エラーか何かで画面が硬直しているという当たり前の予想が裏切られたこともあり、驚きが大きかった。テレビを覗くと、ぼんやりした背景の中で、耳障りな呼出音を出しながら黒電話が単調な動きで飛び跳ねている。

もうゲームは始まっていたのか、ということだけが分かり、まずはこのうるさい音を止めようと、親指で赤いボタンを押しこんだ。「ガチャリ」というわざとらしい音がして受話器が持ち上がり、指を離すとまた「ガチャリ」と言いながら、受話器は元のところに戻ってしまった。

ゲームが正しく始まっているとは言え、急に遭遇したこの電話に何をすればよいのかはさっぱりわからなかった。しかし、考える暇も与えず、再び電話が鳴り出した。赤いボタンを押して受話器を上げるが、何も聞こえてこない。受話器を宙に持ち上げた黒電話以外何もいない。俺は赤いボタンを離さないよう親指を上に滑らせ、今度は青いボタンを押しこんだ。画面上部に文字が現れた。

「そうだね」

次いで女の叫び声がした。

『何よそれ!』

俺は小さく飛び上がって、コントローラを放り投げそうになりながら後ろに二歩後ずさった。テレビの中は静かに静止している。さっきと違うのは、受話器が下りていることだけだ。やはり、ただ電話のみを映した画面から声だけが飛び出してきたようだった。

次いで俺は怒った調子の女の声に何故かわけのわからぬ恥ずかしさを覚え、コントローラを握ったまま周囲を見渡した。平日の昼間、だだっ広い店の中。店員はおろか客も一人としてゲームコーナーの側にはおらず、また近づいてくる足音もなかった。どうやら俺が感じたほどの大音量が響いたわけでもないようだった。

再び始まった呼出音に、さっきよりは幾分落ち着いて受話器を取った時、テレビの方をよく聴いてみると何やらぼそぼそと喋る声がしている。さっきの女だろうか。ぼそぼそ言うのが終わってなお何もせずにいると、「ガチャリ」と通話が切れてしまったが、これでなんとなくやるべきことがわかってきた。

赤いボタンで電話を受け、青いボタンを押した。

「そうだね」

『何よそれ!』

「ガチャリ」

どうやら、これは失敗のパターンらしい。だが、電話はまたじりじりと鳴った。今度は受話器を上げた後、恐らくこのゲームでは不要と思われる十字型のキーから左手を離し、その手で緑のボタンを押した。

「それは違うよ」

画面に、さっきとは違う文字が浮かんだ。しばしの沈黙の後、またぼそぼそ声がした。これはゲームが進行していることを示していた。

『・・・・・』

女が喋っているということのようだが、中身はさっぱり聞き取れない。音量の関係でなく、本当にただのノイズなのだろう。俺は次に最初に押した青いボタンで返事をした。

「そうだね」

『・・・・・』

どうやら成功したらしい。会話はまだ続いているようだった。僅かな沈黙の後、今度は短いノイズがあった。

「そうだね」

一瞬の間を置いて、一秒程度のぼそぼそ声が断続的に起こった。

「そうだね」
「そうだね」
「そうだね」

少し間を置いて、また何かを言われた。

「それは違うよ」

相手は言葉に詰まったようだが、今度は高音混じりのノイズが波打つように続いた。女が何かをまくし立てているようだ。俺は会話を続けた。手はじんわりと温かく、汗をかき始めていた。

「そうだね」
「そうだね」

「それは違うよ」
「それは違うよ」

「そうだね」
「そうだね」

何度かのやり取りの後、ぼそぼそ声としてのノイズも落ち着いた調子に変わっていた。俺はボタンの押し間違えに注意しつつ、会話を収束に向かわせた。

「そうだね」

「そうだね」

「そうだね」

「そうだね」

すると、

『あなたのうちに行っても良いかしら』

突然はっきりと聞こえた女の声に、不意を突かれて呼吸が止まった。硬直した体の胸の当たりに冷たい感覚がした。だが、思考が止まっていたのは一瞬だった。俺はすぐに、今までの返事ではこの質問に答えられないことに気が付いてしまった。脳から発した焦りが徐々に体全体を火照らせ、胸の当たりの冷ややかな感覚を融かしていった。

そうだね、それは違うよ。

きょろきょろと忙しなく見渡す目が、黄色のボタンを捉えて止まった。これは、まだ出していない。何を答えれば良いのかはわからないままだったが、俺はこの選択肢に確信めいたものを得ていた。親指を下に滑らせ、黄色のボタンを押した。

「なぜですか」

画面に浮かんだ文字は判断に迷うものだった。そして、

『何よそれ!』

「ガチャリ」

電話が切れた。

指に込めていた力が抜け、俺はコントローラからそっと指を離した。受話器が電話の上に戻った。その時、ふいに頭の中で不思議な満足感が湧いてくるのを感じた。俺は淡い靄の中に浮かぶ黒い電話を、ただじっと見つめていた。

次の画面に進むのをもうしばらく待ってみても良かったのだが、何故だかもう何も起こらないだろうという思いがして、俺は家に帰ることにした。筐体に刺さったカセットは前面のシールが剥がされており、これが何というゲームなのかはわからなかった。だが、俺のアパートには誰も訪ねて来ないだろうということだけはわかっていた。


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