くそったれは便所を目指す

本棚の下に散らばった本を見ていた。ディズニーの短編だろうか。鳥のようにページをはためかせて本が空を飛ぶというようなシーンを見たことがある。それに似たような形でどの本も皆、めいめいの恰好で床に伏せていた。もうどうでも良かった。俺はその本の重なり合いを足で踏みつけた。床がずんと鳴る音とページが折れ曲がった感触が気持ちの空白を喰い拡げていった。

外はやたらと寒かった。4月の空とは到底思い難い暗く深い(すなわち高い)空だった。通りには何人かが歩いていた。男と女、勤め人とそうでない者。彼らはみな根本のところは同じで、駅から家へ向かうのか駅へ向かって家に帰るのか、その違いしかない。この寒空の下でアスファルトに寝転がるような人種はさすがに見当たらなかったが、きっと寒さをしのいで駅の中に潜り込んでいるのだと思う。彼らが今なお発しているであろう酸っぱい臭いを想像すると不思議と気持ちが楽しくなった。ああいう臭いは誰に対しても平等である。どれだけ崇高な人間がどれほど真っ当に日々を生きていても必ずどこかでぶち当たる臭い。そういう普遍性、無差別性に思いを巡らせると何とも痛快な気分になる。自然と足取りが速くなる。そんな歩く速度ですら今日の寒気が俺の耳を裂くのには十分すぎるほどだった。

近頃はどんな時も家の掃除のことばかりを考える。朝目が覚めた時に昨日と比べてまた汚くなった部屋を見ると、生きて、物を食って、排せつして、鼻をかんで、髪が抜けて、水を飲んで、射精して、コーヒーを入れて、ヒゲを剃って、薬を飲んで、目やにを擦り落とすその全ての行為が疎ましく、どうあっても気持ちが布団に逆戻りしてしまう。思えば生きていながら無駄なことしかしていない。他の者もそうなのだろうか。野菜と米と肉さえ食っていれば健全な肉体を維持できるというのに、何故だか生きているとそれ以外のことをしている時間の方が多い。難儀である。俺の頭ではそういうぼんやりとした言葉でしか今の思考を表現する術はない。

急に小便がしたくなった。寒さに当たり体が冷えたせいだろう。その尿意は大層せっかちで、一瞬で膀胱を通り過ぎ亀頭の1センチほど手前にまで達するのが感じられた。次の次。角を右に曲がると公園がある。確かめたことはないがきっと便所はあるだろう。ここいらは立小便をするには家々の隙間が広すぎる。今までで一番立ち小便がしやすかったのは下北沢だ。あそこは良い。町中どこにでも便所を見出すことができる。好きなだけ酒を飲んだら今度は好きなところで誰にも邪魔されず小便ができるのだ。わざわざ下北沢まで酒を飲んだり何かのショーを観たり何物にもなれないことが明白な奴らとつるみに来たりする人間は、人の立小便を視界の端に捉えても見て見ぬふりをするだけだ。そういうわけで俺は黙ったまま思う存分プランターの草共に栄養を与えることが出来る。さて、やはり公園の中に便所を発見することができた。

用を足しながらタイル状の壁面に貼られた紙を見ると、ここの便所掃除をした者の名前とその日付が表の中に記してある。右肩にあるのは区から委託を受けた管理会社の名称だろうか。便所から出る頃には忘れてしまいそうな何の個性も無い社名だった。便所掃除をした者の名前を一人一人覗き込んでみたが、全員があまりに走り書きすぎるのでよく分からない。俺は紙を破って捨てた。真横に並行して並ぶ2本のセロハンテープだけが悲しそうに壁にへばりついていた。酒が回っているらしい。わざとふらつきながら便所を出た。反対側の入り口から男と女のふざけ合う声が聞こえた。俺は殺したいと思った。別に殺したりしないけど。

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