能年十景

最近バイト先に新しく入ってきた大学一年生の女の子が面倒見の良い自分を慕ってとてもよく懐いてきてくれたので、丁寧に仕事を教え、一緒にお昼に出たりプライベートでも何度か遊びに行く仲になり、単調だったバイトが楽しくなってきたそんなある日、早めの休憩を貰い更衣室へ入るとその女が自分のロッカーを開けて財布から紙幣を持ち出そうとしているところを目撃した能年玲奈




友達が試着室で着替えている最中に、着替えを待つ店員からあれが今の流行だなんだと話し掛けられてしまい、懸命に応対したもののそういう話が元々苦手なため、明らかにぎこちない空気が出始めて居た堪れなくなってきたところで試着室のカーテンが開く音がして店員がそちらに向かったので、すかさず反対方向へ逃げ、壁際の棚でカチューシャなどの小物を見るフリを始めた能年玲奈




虚空に向かって挨拶をしながら山手線の車両内をウロウロと往復し続ける男がふいに寄越して来た会釈になんとなく返事を返してしまったため、うろつくのを止めた男が自分の傍で立ち止まってにやけ面のままじっと動かなくなり、それどころか自分の降車駅で同じように下車して後ろを付けてさえ来たので、恐怖の余り近くの女子トイレの個室に駆け込んで外に出られなくなった能年玲奈




遅く起きた休日に、テレビを見ながら適当にした化粧のままで自転車を漕ぎ出し、途中でパンとコーヒー牛乳を買い、自宅から一駅となりにある大きな公園の芝生に囲まれたベンチに腰を下ろして遅めの朝食をとり、昨日のこと、今日のこと、明日のことなどを考えながら、暖かい陽光の中で心地よさに目を細めていると、いったい今がいつだったのかがわからなくなってしまった能年玲奈




よく足を運ぶライブハウスでいつも一人でいる姿を見かける女の子と仲良くなりたいと思い、ある日の終演後に意を決して話し掛けたのだが、同じステージを観た者同士の素直な感想を交わす前にいつの間にか出演バンドの薀蓄を一方的に喋り続けてしまい、ふと我に帰って慌てて相手の顔を見ると話を聞きながら楽しそうに笑ってくれていたのがとても嬉しくなり、つられて笑う能年玲奈




スーパーのお菓子売り場で砂糖をまぶした飴玉を見かけると、調理実習で作ったお菓子を抱えて帰ったバスの中で、いい香りだねと言ってくれたお婆さんに包みを広げて見せ、よろしければと差し出した焼き菓子の一つを大事そうに受け取って貰い、別れ際にこれしかないけどと手渡してくれたみぞれ玉のざらっとした舌触りと甘いみかんの香りと皺くちゃの手の温かさを思い出す能年玲奈




数年ぶりに集まった同級生と思い出話に花を咲かせてひとしきり盛り上がり、居酒屋を出てそれぞれの帰る方角へと解散した後で、ほんの少しだけ自分が昔に好意を抱いていた男友達と偶然同じだった帰り道を並んで歩いていた時、一瞬だけ会話が途切れてすぐにまた再開したその間に遠慮がちに触れてきた彼の指を静かに受け入れ、駅に着くまでのあいだ二人で手を繋いで歩いた能年玲奈




白いタイルと黒いタイルがおおよそ八対二の配分で無作為に並べられた歩道をじっと見ながら歩いていると、黒いタイルを踏む時だけ靴底に違った感触を覚えるような気がして、それを確かめるため足の裏側に意識を集めて白いタイルと黒いタイルを何度も何度も何度も何度も踏みしめながら歩き続けているうちに、気が付いたら自分がどこにいるのかがわからなくなってしまった能年玲奈




身体に纏わりつく暑さと蝉の声で昼寝から目覚めると何故か田舎の実家にいたので不思議に思い横を見ると亡くなったはずの祖父が微笑みながらこちらを眺めていて、すぐにこれは夢だと察しがついたのだが、懐かしい故人に再会できた喜びが抑えきれなくなり思わず口元を綻ばせた能年玲奈が顔を押し付けて思い切り匂いを嗅いだ枕の中にぎっしりと詰まっていた七センチ程の小さな人間




太陽が無い濃灰色の空の下で静かな水面に浮かぶ無数の小さな島、その全てに自分と同じ自分が存在してお互いを監視しているという現実に怯え、うずくまり、がたがたと震えていると、先ほどから遠くの方で微かに聞こえていた波音が突然ザバァという大きな音になり、次いでそれが濡れた足音へと変わって一歩、また一歩とこちらへ近づいて来る時に、ついに己の運命を悟った能年玲奈




まるで長い長い夢を見た後のように記憶や思考にぼんやりと靄がかかった感じで深夜に目が覚め、もぞもぞと寝床から這い出し、壁にあるはずの明かりのスイッチが見当たらないので真っ暗な部屋を手探りで歩き、やがて洗面所へと辿り着き、顔を洗って、口を濯ぎ、タオルで水滴を拭った後でふと鏡を見るとなぜか能年玲奈が写っていないので「あなたは誰ですか」と問いかけた自分の声が知らない誰かの声だったことに戦慄し、鏡の中からこちらを見ている誰かの顔に向かって狂ったように悲鳴をあげ続けている
あなた

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