夜目に視たもの

入力した番号と名刺に記載されたそれをもう一度よく見比べて発信ボタンに指を乗せた時、頭の上で間の抜けた電子音が響いた。それを合図に勢いよく横断歩道へ飛び出して行く人たち。私もその波に置いていかれないように名刺をつまんだままの左手で足元の鞄を拾い歩き出した。

金曜15時の池袋駅東口は想像していた以上の人口密度だった。仕事でも休みでもほとんど訪れたことがなかったので、「バンドマンとオタクばかりが際限なくうろつく場所」という偏見をしばらく抱えてきたが、今日はそれを立証するに足る光景を見た気がする。

ゴロゴロというキャリーケースの唸り。誰かと誰かの話し声。そういった雑踏の中で無意識に強く携帯を耳に押し当てていたが、最初の呼出音を聞いた後でようやく頭が動き出した。

――そういえば、あの後別の打ち合わせがあるって言ってたっけ。

二度目の呼出音が鳴った。あぁ、もう、遅い。電話をかける前に何とも思わなかったのろまな自分を呪い、無意識に舌打ちをしていた。が、すぐにまた迂闊な自分をたしなめる。この瞬間に受話器が上がっていたら愛想笑いでは済まされない。
初回の打ち合わせを済ませたばかりの相手だ。普段以上の注意をもって接する必要があった。とりわけ、今度のイベントは先方も言っていたとおり、とかく金はかかっても成功に終わらせたい。
留守番電話に吹き込む内容を整理しようと頭を集中させ始めた。

その時、右前方にワンピースの裾を押さえながら歩く女性を見つけた。
目の前を行く何人もの黒い頭にちらちらと隠れながらこちら側へと渡ってくる途中だった。うつむき加減のため顔のところはよく見えないが、はためく裾から伸びる白い両脚を目ざとくも見つけた。脚の根もとに視線が張り付き、数メートル右の方ですれ違うぎりぎりまで追いかけた。
そして彼女が視界の右側で消えた時、今日の風の強さを初めて意識した。そうか、今夜あたり東京を通過するって言ってたか。
視線をビルの上にやると、不気味なの速さで大小様々の雲が一つの方向へ走っていくのが見えた。

「ピー」
「あっ!」

短い発信音は恐ろしい速さで雑念を押し流した。
どうしよう。打ち合わせの後で本社に確認した諸々の情報は頭に入っていたけど、何をどこから話したものか一つも整理できていない。とりあえず内容だけでも吹き込んでおけば良いのかもしれないが、むしろこちらから聞くべきこともあるし、かと言って折り返しをお願いするのも……

そういった迷い言が地響きを上げて頭を駆け抜ける衝撃でなんだか泣き出したくもなったのだが、いつまでも黙っているわけにもいかず、口を開いた。

「あのーっ、先ほどは、お時間いただきまして有難うございました。桐田です。ええっーと……あの、また、後ほど掛け直しますので。すいません、失礼します」
「プツッ。ツー、ツー、ツー」

「後ほど」っていつだ?メールで連絡するとも言っておけばよかったのでは?それ以前に、あんな意味のない録音をわざわざ再生して聞かされた方はどう感じる?

――何も言わない方が、良かったんじゃないか。

次から次へと湧いて出る後悔の念に、目を細めて溜息をついた。
JRの改札へと続く階段を下りながら、目に映るすべてのものに呪詛を振りまいた。強まる後悔と羞恥の念は、現実の視界にひたすら暴力的なイメージを重ねた。


     *


「――それで、留守電に入れてくださったメッセージを聞いて思い出したんですよ!」

その日の午後7時、私は広尾のとあるマンションにいた。

「それは、いや、なんていうか……良かったです。ええ」

強い風に吹きつけられる窓枠の悲鳴を意識して、少し大きめの声でそう返した。
正解とは言えなかったが、何でもいいので吹き込むべしという咄嗟の判断は良い方向へ転がったらしい。こちらの社長から折り返しの電話が鳴ったのは、夕方過ぎまで何の音沙汰もなく一度は収めた焦燥感がまたじりじりとこみ上げてきたところだった。

「というか、すみませんねぇ。わざわざ来ていただいて」
「あ、いえ、とんでもないです。むしろ、私どもとしましても、早め早めにお話を進められて、ラッキーだったというか。ええ」

ラッキー。丁寧さを意識して並べた言葉の中で急に飛び出したこの横文字は、確かに私の本音だった。上司が急きょ欠席となり自分一人で赴いただけに、昼間のオフィスでの打ち合わせには少々(というかかなり)不安があった。しかし、先方の質問への資料はすぐに用意できるものだったし、しかも向こうの希望でその日のうちに再訪の機会を貰えてしまった。それがお宅訪問になるとは思っていなかったが。

一通りの説明が終わった時、手元へ視線を落とすとガラステーブルの表面で自分と目が合った。口角が吊り上ったまま固定され、唇の間で真っ黒な裂け目がいびつに開いている。留守番電話のイメージそのままの、おどおどした役立たずの顔だ。もしかして、玄関を通ってからずっとこの顔でいたのだろうか。

会話。何か、褒めるものを。
あまりじろじろ眺める恰好にならないよう気を付けながら、自分の座る周囲に目をやった。

「そうだ、すみません、何もお出ししてなくて。何かお飲物でもご用意しますね」
「あ、いえ、そんなお構いなく、いや、ほんとに」

私がのろのろと腰を浮かそうとする前に、社長は既に立ち上がっていた。
落ち着かない様子を見せていたのだろうか。少しだけそんなことを気にしたが、自然な様子でキッチンの方へ行く社長の姿を見送ったあとで、もう一度周りを見渡した。

背後の壁にかかった絵皿。蔦のような模様で縁取られ、中心に花が描かれている。部屋の角に収まっているアンティーク風の小机。その上で細いプリーツの入ったシェードからランプが柔らかな明かりを放っている。さらに、ランプの手前に置かれた金縁のフォトスタンドの中では、どこぞの重役らしき白髪頭の男たちのあいだで微笑む浅尾社長の姿があった。
彼女が座っていたグリーンのソファに目をやると、天使を抱いた聖母マリアがプリントされたクッションがいた。何から何まで、オフィスでお会いした時に感じた浅尾社長のイメージ通りの、つまり、私の語彙において「品がありますね」以外の言葉で表現することができない空間だった。

向こうのカウンターで自らてきぱきと手を動かしているのが、今回仕事でご一緒することになった某ホテル・グループの浅尾社長である。

上司から聞いた限りではご結婚されているということだったが、恐らく旦那とは同居していないか、こちらの方は別宅。それも、お客を招く時に使うような部屋なのだろう。(そうだとしてもお宅にお邪魔するのは気が引けるのだが)

見た目にはかなりお若いが、歳は40代半ばを過ぎたくらいだろうか。ホテル業は広い客層を相手にするサービス業関連の中でも女性が多く活躍している分野ではあったが、最近はもっと若い経営者もざらにいる。

それにしても、経営者以前に企業勤めをした経験自体さほど長くないということだったが、なぜ社長なんかになろうとして、また、なることができたのだろうか。若い頃は音楽の分野で(ピアノだかなんだか)活躍されていたそうだが、そんな世界の方になると余計に会話のツボが見つからない。

そうして、仕事上の要件の他には懐に入り込むきっかけを見つけられないまま、私は紅茶のカップに何度も口を付けていた。

それから少しだけ進んだ時計を二人同時に眺めた時、意外にも社長から夕食に誘っていただけた。最初は本気でお断りしようとしたのだが、さも軽い感じでなおかつしつこく誘われてしまったので、ご相伴に預かることにした。
今後を考えればぜひ懇意になりたい相手ではあったし、よくよく考えれば好意を持っていない相手ならそういった申し出はしないか、あったとしても自宅でということはないだろう。少なくとも会社を代表してやってきた者として認めて貰ったのだということを想像し、私は少し自信を取り戻していった。


二時間ほどが過ぎていた。

畳まれた宅配ピザの箱、汗を流す二つのタンブラー、空になったウイスキーのボトル。ガラステーブルを囲うソファに、二人はもういなかった。

いまだ強く部屋を揺らす風音とは対照的に静まり返った食事の跡。そこから廊下を隔てた寝室のドアが数cmほど開いていた。
ドアの隙間から差す薄明りの中、真っ暗な部屋でぴちゃぴちゃと何かが触れ合う音と短い呼吸音が絡み合っていた。

酔いの回った頭は、この豪奢なシーツの上に横たわることにもシャツのボタンを自ら外すことにも何の意味も見出さなかった。いまはもう何も思わず、ただ私の胴を跨いで両ひざで起き上がった浅尾社長がストッキングを捨てるのを眺めていた。

自宅を訪ねた時、彼女は白い花の模様が入った黒地のワンピースを着ていた。それはオフィスでお会いしたスーツ姿の浅尾社長となんら異なる印象を与えるものではなかったが、そこには確かに、ほんの僅かな違いが感じられた。そこに私は(いまこの瞬間に思い出しながら気づいたことだが)、なにか開いた心で接することが自然と思われるような雰囲気をかすかに感じとっていた。


「すみませんね、ちょっと、気分が……」

ソファの背にもたれかかった社長がそう発した時、酒は入っていたが不思議なほど冷静に自分がすべきことを考えられた。水を汲みに行き近くで様子をよく見て、救急車を呼びましょうかなどとさえ提案した。その時向けられた視線に込められていたのは、私の大げささに対する非難だけだったのだろうか。


ベッド脇に衣類をなげうった時、腹の上に重みが加わった。そして今日何度目かの強い香水の匂い。頬に手が添えられた。
彼女の湿った舌が口元を撫で回し、柔らかな手が私の下腹部で直立するそれを優しく掴んだ。

中肉中背でスタイルはまあまあ良く整った顔立ちではあったが、廊下から差し込むわずかな光線は彼女の表面に刻まれた縦横の線と肉の凹凸を暗闇の中で浮かび上がらせた。それらを無意識に観察し始めた私の情念の炎はふいに掻き乱されて散らされようとした。
しかし、努めて体を擦り合わせ、襲い来る影を振り切ろうとした。おぼろげに見える輪郭は薄く、対していま胸の上に感じる肉は感動するほど重く、そして熱い。ひどく単純で動物的とも言えるこれら肉感は擦りあえばあうほど視覚より強く心に訴えかけ、「プロではない」女の身体に初めて触れた私に段々と感動をもたらしていった。

彼女の手による上下運動が頂点に近づいてきたことを感じ、荒い呼吸で交代を求めた。
両ひざで腰を抱えるような体制になり、再び唇を求めて覆いかぶさろうとした時だった。暗闇に目が慣れたのだろうか、私の陰になっているはずの浅生社長の輪郭をさっきよりもくっきりと捉えることができた。

だが、今度は何者も水を差すことはなかった。いまこの状況を、そしてあのアルコール漂うリビングの中で徐々に濃密さを増して行った淫靡なムードの残り香を、全てがむき出しになった今、貪るように頭の中で反芻する。

仕事上の立場。年齢差。
それらに類する言葉は隙あらば私の脳に冷水をぶっかけて慎みや羞恥の念を引きずり出そうとしたが、今はもう、その作用を打ち消して余りある程によく燃える性的興奮のための燃料となっていた。
むしろ、この瞬間に頭の中を占めているのは乳房の弾力よりも、性器の感触よりも、薄闇の中で控えめに浮かび上がる皺とたるみ、その他体中に刻まれた彼女の生きた時間のかたちだった。

経営者。人妻。過去の経験人数。取引先。ピアノ奏者。豪奢なシーツ。ワンピース。サテン地の下着。天使と聖母マリア。

それらすべてを脱ぎ去ったはずの彼女は反対にそれらすべてを身に纏い――いや、肉の厚い胴の内へと閉じ込めていた。そしていま、私の無神経で無教養な指がその内側へと通じる柔ひだの表面をゆっくりと濡らし、こね回す。
怯えのような細い嬌声が上がった。

こうしている間、私は自分の快感よりも彼女の反応それ自体に充足感を感じていた。「嬢」相手に感じたことがない芽生えたての感情を、私は大切に大切に指先へと伝えた。
ふいに滑り込む指。また、声が上がった。

顔を近づけたときに強く訴えかける香水の香りや、熱いアルコール混じりの吐息に混ざる独特の口臭など、確実な40代のそれを意識させる要素のすべてが純度の高いガソリンとなって鼻腔からペニスへと流れ、滞留した。うっ血が高まる快感が脳を突き上げる。いくらか大胆になり始めた私が社長の手を導いてそれを握らせた時、得も言われぬ恍惚が溢れた。

はじめこそ枷となりかけた歳と立場の違いは、いまや全くその逆で、怒涛の勢いで暴れる興奮の炎に勢いを加えて途絶えることがなかった。
経験の乏しさや社会的立場を意識する心の中の怯えた部分が、今までの自分が持たなかった普通ではない興奮作用を欲しているのかもしれない。

やがて、十分に熱がこもったぬめりの中へと震える下腹部がゆっくりと侵入した時、体中を駆け抜ける何かに一瞬で支配された。爆弾のようなそれは、せっせと興奮の火に油を注いでいた諸々の思考たちをすべて吹き飛ばした。

窓に打ち付ける雨音の中、言葉に鳴らぬ叫び声を上げながら、私は最期の瞬間まで浅尾社長の上で腰を止めることはなかった。


     *


次に浅尾社長と顔を合わせたのは翌週、池袋のオフィスにある会議室の中だった。その日は前回打ち合わせを欠席した上司も同行し、来月に控えたホテルのオープニングイベントに関する段取りを確認した。今回からは先方の広報担当者も席に加わった。

さも自分のアイデアかのように資料を読み上げる上司の声が遠くのどこかで聞こえた気がした。
私の頭はデスクで打ち合わせ資料を仕上げた時点で既に機能不全にあった。今はただ、この数日のあいだ何度も想像の中で触れた、卓を挟んだ向こうにいる社長の身体以外を想像するだけだった。
幸いにも、向かいの席で「なるほどですね」を連発して頷くこの男がいたお蔭で、不自然に熱い視線などは送らずに済んでいた。


あの台風の日、交わした会話はごく僅かだったと記憶している。文字通り全身全霊の行為に果てた私は、暗闇の中でも分かる程に紅潮した浅尾社長に渡す言葉が見つからなかった。まだ上下している肩をそっと掴み、自分の方へと抱き寄せた。
こういう時、何が正しいのかがわからないので、何が間違っているのかもわからない。彼女の反応に少々怯えながら、しかしそうは悟られぬよう穏やかな動作で自分の胸の中に顔を埋めさせた。

何を。何を言えば良いのだろう。
自分はどうだった。良かった。いや、いや、感想を披露してどうする。何を言う。何を言える。何でもいい。
そういう堂々巡りの後には最も無難な、つまり意味の無い言葉が飛び出すだけという自分自身の性質を理解しないまま、そしてこの沈黙の効果などには思いもよらないままで、声を絞り出した。

「あの、本当に……綺麗です」
「……」

瞬間。密着していたはずの体がすうっと離れるような感覚に襲われ、強く腕に力を込めた。

結局そのまましばらく一緒に横になった後、私はまたわけのわからぬことをぼろぼろと垂れ流しながらゆっくりと起き上がった。
短い返事を返すだけの彼女の背に「もう眠いですよね」を数回ほど叩きつけ、最期に「また――」とさもその先を言い淀んだかのように発し、横たわる彼女には一度も近づくことなくさっさと部屋を出てしまった。
もちろん、言い淀んだその先に言葉など何も用意してはいなかった。


連絡先は、名刺に記載された携帯の番号しか知らない。だが、向こうの生活など何もわからない以上、いきなる通話をかけることのリスクに見当がつかなかった。そういうわけで、打ち合わせの席では私はあの留守番電話の小間使いに戻っていた。かつて欲情の糧とした「立場の違い」を今度は慎みの理由として流用し、一言も声を発することなくその日の打ち合わせを終えた。


さらに何度かの打ち合わせを経て、オープンイベントの当日を迎えることとなった。

数年がかりで行ったアジア圏への進出攻勢の後、日本国内で、それも都内で新規に宿泊施設をオープンするとあり、注目度はなかなかのものだった。会場に入るネットメディアや旅行雑誌の記者たちの中に、某全国紙の記者の姿も確認できた。

「今日、すごいっすね」
「まあな。でも、もう少し集まると思ったんだけどね」

二度目の訪問以降、(私のどんな表情を見てそう決めたのか)上司は全ての打ち合わせを自らのスケジュールに合わせて設定させた。私単独の仕事となりかけていた案件はお目付け役付きのものとなり、そういうわけでこのオープン当日も几帳面に朝から現場に張り付いてくれていた。
普段で言えばこういった上司の介入を快く思わないくらいの自立心は持っていたのだが、こと本案件においては以前どおりに仕事をすることが難しくなっていたため、絶好のタイミングで助け舟に乗り込んだ気分だった。

助け舟に乗ろうがどうしようが、全ての調整を済ませて当日の朝を迎えさえすれば、自分たちのやることはもうほとんど無いと言ってよい。スタートまで残り数分。なんとなく居場所のなかった私たちは控室へ通じるドアの前で並んで立ち尽くしていた。

背中の壁一枚を隔てた向こうで、挨拶を控えた社長の話し声が聞こえる。

今朝、浅尾社長は裸体以上にボディラインを描き出すタイトな灰色のドレスで会場にやってきた。そのとき出入り口付近で作業指示を出していた私は、真っ先にそちらを向き直り声をかけた。

「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
「ええ、よろしくお願いいたします」

それだけ言って真横を通り過ぎる彼女の顔へ向かって、私の視線だけが空中をさまよった。

今日交わした言葉は今のところそれ限りだった。ただ、あまり馴れ馴れしくすると、さすがに関係を疑われることはないにせよ、仕事相手として持つべき緊張感にひびが入る。(もちろん周囲の目にもそう映るだろう)
私自身、故意に公私をあやふやにするような態度をとることは良いことではないだろう。そのことは、納得ができていた。納得はできていたのだが……

「それでは、まず、代表取締役であります浅尾より挨拶を――」
「おい、そっち開けろ!」

司会の声に被さった小さな怒声で我に返ると、片方のドアの取っ手を掴んだ上司がこちらを睨みつけていた。開ける。ドアを開ける。そうか。ここで我々が開ける……手筈だったか?

段取りを確認したい気持ちはなんとか堪えた。立ち位置のミスだ。だが、たまたまここにいたというだけで部外者である我々が控室のドアを開けることへの違和感は堪えられず、眉間を走る皺となって顔に出てしまった。上司の方を見ると、何か厳かな雰囲気を出そうとしたのだろうか、変に澄ました表情でうつむいている。私もそれにならって顔を伏せた。

やや温度差のある二人がドアを開けた時、明るいグレーのシルエットがその中から進み出た。彼女を迎える大きな拍手が空気を震わすのを感じ、黒子然として伏せていた顔を少しだけ上げてみた。もちろん、顔を上げるというその動作には何の期待や執着も一切存在しなかった。ただ目の前を通る影を無意識に目で追っただけのこと……

その瞬間、二つの視線が同じ軌道で重なった。

来場者用に丁寧にこさえたのだろう穏やかな微笑みが、視線の重なる瞬間だけ異質な表情に変わったのを、私ははっきりと目撃した。

無意識的にドアを閉め、咄嗟に間近にあったスピーカーの陰に隠れた。そこから響く几帳面なハイトーンボイスを、ただの音として聞いていた。

心が凍りついて、停止するのを感じた。

――なんなんだよ。

一体、何がいけなかった。

何の連絡も取らなかったこと?旦那の存在を警戒し、また代表取締役という身に気を遣い、こちらから連絡することは歯を食いしばって堪えていた。夜、光る画面を見ながら何度も電話帳から番号を表示した。並んだ数字を見つめた。現在時刻を見つめた。通話ボタンを見つめた。
斜めに傾いた受話器のマークを穴が開くほど見つめたが、タッチパネルは何の動作も起こさなかった。

いや、そもそもあの日以降、彼女は私からの連絡など待っていたのだろうか。仮に何か好ましくない感情が芽生えていたのだとしたらどうだ?今日のイベントまではうまくことが運んでいる。しかし、今後、何らかの形で、私個人への不信を会社に告げられてしまったら……

そんなことが現実に起こり得る可能性を冷静に判断できるリソースはなかった。実態のない不安が「何か」と共に膨らんできた。抱えきれないほどに膨張する不安。そこから目を背けた先にある、何か。
霞が晴れるようにして見えてきたその正体は、今日までの日々で何度も何度も何度も再生したあの行為の記憶と強く結びついたある衝動だった。

脳内で轟轟と渦巻くのは、セックスへの渇望。それも、あの時生まれて初めて感じた猛烈な心的興奮への渇きだった。

一体、自分が彼女自身の何に対してあれほどの興奮を抱いたのかがわからない。もっと若く、美しい女を、大枚はたいて何人も抱いた経験があった。

もう一度、心を震わせたい。ちぎれるような興奮の中で死にもの狂いでもがくようにあの体を泳ぎ回りたい。

目じりに集まる線。ぼこぼことした頬の凹凸。首筋で色濃く吹いた粉。
そのあたりから執拗に舌で辿り出す。肉のうすい鎖骨周り。形の崩れた乳房と古いかさぶたの色をしたその先端。そこを特にしつこく唾液で濡らしていた時、頭を押されたのを思い出す。
やがて、しぼんだゴム風船に似た腹部の柔らかな肉へ到達したとき、私はそこから先へは進まなかった。そこで視界は再度浮上し……

やがて、どこからか檀上に上がってきた総支配人の挨拶が始まった時、会場の端へとはける灰色のシルエットを視界に認めた。

目。そういえばあの時間――あの夜の全ての瞬間に、私たちの視線は通い合ったか?

急いで映像を巻き戻して確かめるが、既に録画は私の妄想で上書きされ始めていた。現実に起こした行動と心の内で求めた行為。それらが混じり合い、境目を失くしつつあった。

しかし、確かに一つだけ、どうしても見つからない場面がある。おぼろげな輪郭だけの部屋、互いの息にむせ返るほど顔が近くにあった時、私は、視るはずだったものを視ていない?

そうだ。浅尾社長は、一度たりとも、私と、目を――


遠くで拍手の音がした。

ふいに目の焦点が合った時、まず口を開けたままうつむいている自分に、そしてスラックスを突き破らんばかりに硬く勃起したそれに気が付いた。一瞬何かを考えようとした。しかし衣服を押し破ろうとするそれの刺激をビリビリと受け、私の意識は――血液は下腹部へと流れ落ちて行った。

携帯を取り出して耳に当てた。そのまま会場の出入り口へと誰の顔も見ず速足ですり抜けた。

ホール以外に人のほとんどいない新しく美しいホテルの廊下を駆け抜け、輝くほど清潔なトイレへと飛び込んだ。完全未使用の個室の中でファスナーを降ろし、跳ね上がった陰茎を掴んだとき、胸の奥がふいに冷たくなり、目頭には熱いものが湧きあがるのを感じた。自分が何をしているのか考えろ。声がした。自分の声だった。

しかし、耳を貸すまいと強く頭を振り回した。何も考えたくなかった。硬さを失いかける陰茎を、再び強く掴んだ。
赤く血走った眼は、血液に満たされてパンパンに膨れ上がる亀頭だけを捉えていた。


*


風のない湿った大気の夜、私は街灯もまばらな住宅街にいた。

同じ角を何度も行き来した末にとあるマンションの前で足を止めて電信柱にもたれかかり、何十分経っただろうか。明かりの点いた沢山の窓に落ち着かない視線を送りながら長いあいだ佇んでいた。

訪問を躊躇していたわけではない。ましてや、何かの用事で降りて来る誰かを待っていたわけでもない。
私は、ただ何もないことを望み、そこに突っ立っていた。

日が落ちてからはもう何時間も過ぎていたため通行人は少なかったが、前を通る人たちが私の様子を横目で窺っているのがわかった。

そして、次第にそんな通行人の陰すらも見当たらなくなってきた頃。
……そろそろ帰ろう。そう思い、電信柱から身を起こそうとした時、三メートルほど向こうで何か光るものを見つけた。

硬貨だろうか。何かの部品か?
身を乗り出してそちらへ向き直った時、突如別の電信柱の方から大きな黒い影が飛び出した。その陰に驚き、歩き出そうとする体を止めた。その陰は光るものの周囲で二、三歩で飛び跳ねながら向きを変え、黒い嘴でそれを拾い上げると、首をひねって周囲を眺め見た。

すぐに、硬直する私とも目が合った。

「……何を持ってるんだい」

そう語りかけて足を踏み出した矢先、翼を広げて飛び上がったそれは例のマンションの屋上へ――そのさらに向こうへと消えていった。
呆けた顔でその行方を追う私の視線が、いま引きはがしたばかりの705号室の窓に再び張り付いた。

部屋の窓はあの日と同じく真っ暗だった。

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