スイセイ

どちらが最初に口を開いたかは覚えていないが、私と妹の間ではいつの間にか会話が始まっていた。二人とも黙々と手を動かして衣装ケースを掘り起こしていたのは最初の三、四分くらいのもので、冷房が効き始めて部屋の中が快適に冷えてきた頃には手に触れたおもちゃや文房具、その他写真や教科書など色々の物について各自の思い出を発表し合い、面白くも無いのに顔を綻ばせたりしていた。

妹の引っ越し先は兵庫県のどこかと聞いたのだが、何度聞いても地名が覚えられない。業務用冷蔵庫の営業マンの元へ嫁いで行ったのが昨年春のことで、それからもう一年ほどは週末しか実家に居つかず、平日のほとんどを旦那が住んでいたという川西市のアパートで暮らしていたそうだ。しばらくそんな半端な状態でやっていたのだが、このたび新しい命を授かることができ、秋に控えた出産を前に向こうのご両親の実家近くでマンションを借りて新生活を送ることになったらしい。長男である私が大学を出て早々に実家を出て行ってしまったので両親にとってはこれで世話を焼く対象が完全にいなくなってしまったことになる。気の毒ではあるが、幸いにも妹の新居は隣県とはいえ車で1時間ちょっとの場所なので、頻繁に遊びに行って貰うしかないだろう。むしろ、20数年間実家暮らしを続けてきた妹の方が先に音を上げて旦那共々うちの実家の近くへ出戻ってくる展開の方が大いにあり得るだろう。そういえば、直接話してこそいないが母親の方も何となくそう考えているようなことを言っていた気がする。

旦那のアパートには最低限の衣服しか置いてないと言っていたが、少なくとも今この部屋に置いてある妹の思い出の品々は大半が向こうに持って行くどころか大事に残しておく必要すらないように思える。

「せいぜいこの学生服くらいなら、旦那とのお出かけに使えるんとちゃうか」と、部屋の真ん中にワイシャツとスカートを放り投げると、「アホか」と一蹴されてしまった。

結婚式にしてもそうだったが、何でもかんでも間際になってから忙しなくやり始める妹のペースに私はいまいち着いて行くことが出来ない。妊娠の報が伝わったのも親戚連中を含めて私が最後だったらしく、結局こうして顔を突き合わせるのも彼女のお腹が随分と大きくなってからになってしまった。

小さい頃から特段仲が良い兄弟ではなく、いつもお互いが何となく気を使わないで済む距離感を保って過ごしてきた。それでも、私の方は今回の妊娠や引っ越しの話を聞いて、遠方に住んでいる身とは言え何か力になってやりたいと感じていた。そして妹の方がそれを察したのかどうかは分からないが、入居一週間前に「実家の部屋の整理を手伝って欲しい」という連絡を寄越してきた。携帯に打ち返した文字の上では「旦那は手伝ってくれないのか」などと白けた調子を出してみたりしたのだが、内心是が非でも、と思いながら急いで新幹線の切符を手配し、こうして久しぶりの実家で懐かしいものを手に取りながらそれなりに楽しい時間を過ごしているのだった。

昔のアニメのおもちゃなどは手に取るどれもが懐かしく、妹の持ち物ではあったが、私自身、童心に戻ったようにああだったこうだったと騒がしく口を開いていた。次に出てきた言葉も、そうした無邪気な反応から出たものだった。

「これ、苦かったなあ」

そう声を出した後、私はみぞおちの辺りからさっと体温が失われるのを感じた。

「なにが?」

妹がそれまでの会話と同じ気楽なトーンで尋ねてくる。

「いや、なんでもないよ」
「なに?なんか変なものでもあった?」

私が手に取ったのは決して『変な物』ではなかった。だからこそ、話を切り替えないとならない。会話のテンポが乱れたことが気になったのか、彼女がさらに言葉をつないできた。

「なに?もしかして古い食べ物とか入ってた?」

私の沈黙がかえって面白い物を期待させてしまったらしい。妹は「嫌だぁ」という表情をこちらに作って見せ、好奇心のままに背筋を伸ばして私の手元を覗き込んできた。

私は咄嗟に手に持っていた物を体の陰に隠した。隠した、というより、妹から見た時の死角に置いただけなのだが、幸いにも自分が座っていた周囲のすべてがごちゃごちゃと雑多な物に囲まれていたため、何を手に取っていたのか、あるいは何かを手に取っていたのかすら、彼女の方からは判別できなかったと思う。

そして今の曖昧な状態を誤魔化すためのタネも、ごちゃごちゃと溢れかえっている物たちの中から見つけることができた。私はラムネか何かのお菓子と一緒にアニメキャラクターの小さい人形が入っている、いわゆる『食玩』の箱を手に取って掲げた。

「これこれ。なんか昔へんな味の飴があったやん。あれに見えて」

「そんなんあったっけ?」

「でも、今見たら全然ちゃうかったわ」

勿論そんな苦いと感じるような箱入りの飴など、私の少年時代には見たことすらなかったが、今の妹にとってはそんな飴があったかどうかよりも、この食玩の箱の方が気になったらしく、同じシリーズの人形が全部で10種類あるからついでに探して欲しいという注文を寄越してきた。それを聞いた途端、肩のあたりで強張った筋肉が一気にほぐれていくのを感じた。どうやら、百点満点の"取るに足らない会話"を演じることができたようだ。

「全部掘り返すんやから、別に探さんでも最後には全部出てくるがな」

「そっか。確かに」

「っていうか、これはほんまに新生活に要るのか?」

「いるよ。家に飾るねん。懐かしいし」

「旦那さん、絶っ対に嫌がらはるで」

「うわ、確かに! あの人そういうフィギュアみたいなんめっちゃ嫌いやわ!」

会話のテンポが元通りになったことが嬉しく感じたのか、そう言って私たちは軽く笑いながらまた各々の持ち場に目線と手を移していった。私はさっき隠した物をさっと手に取り、眼を向けることすらせず『いらないもの』の箱の中へ黙って放り込んだ。


年が変わってからも実家には一度だけ帰っていたが、家族四人で食卓を囲むのは正月以来のことだった。ここ数年は帰省する度に「息子たちが高校生だった時の食欲から認識を切り替えて欲しい」と母親には強く伝えているのだが、聞いていないのか年数回のことなので要領が掴めきれていないのか、今夜もデパ地下の売り物のようなすさまじい量の酢の物と煮物が大皿に並んでいた。家族全員で卓を囲んでそれらをつついていると、話はもっぱら妹の新生活のことに及んだ。やがて皆が言いたいことを言い終えて一段落がついたところで、「じゃあ、せっかく全員集まったから」と、妹本人が改まって切り出し、彼女が考えていたという今度生まれてくる子供の命名案について話を始めた。

恐らく両親からの反対意見を想定していたのか、若干緊張した様子でそれを考えた背景も含めて長々と話し続けてくれたのだが、一言でまとめると、男でも女でも「慧」を使いたい、というざっくりしたイメージがあるだけらしい。しかしこれを正確に聞き出すにも一苦労あった。彼女はまず初めにその漢字のことを「彗星の『スイ』」と表現した。それに続いて賢そうなイメージがある、姓名判断の本で見た結果も上々だった、などと頑張って我々を説得しようとしていたのだが、肝心の画数を確認してみても、どうもお互いが思い浮かべている漢字が違うらしい。妹以外の三人が違和感の正体を掴みあぐねているところに、私がもしかしてと携帯で「彗」と「慧」の字を打ち込んで妹に見せるとようやく事が解決した。

「あ、こっち! この"心"が付いてる方!」

その瞬間、母親と父親が大きく目を見開き顔を見合わせた。

「お、おまえ、それは『彗星』とは字が違うがな!」

ツッコんでいるのか本気でいらついているのか、そう声を張り上げた父親は悩ましそうに俯いてぼりぼり額と掻き始めてしまった。母親は困った様子で
「昔から勉強苦手やったからねえ」などと言っている。結局この日は両親の中で孫の名前についての結論が出ることはなかった。


夕食の後、何やら旦那の家に用事があると言って妹が車に乗って出て行ってしまった。こんな時間から一時間も走るのかと驚いたのだが、両親の方はもうこうした行動にも慣れきっていたようで、道が暗いから気をつけろとだけ忠告し、妹を適当に送り出していた。私の方は部屋の片づけも一段落して明日の朝に新幹線で帰るだけなので、さっさと風呂に入り、テレビを見ながら父親と缶ビールを三本ほど開け、早々に自分の部屋のある二階へと上がっていくことにした。

そして、色々の物がすっかり段ボールに収まった妹の部屋のドアを静かに開け、中に足を踏み入れた。


車で持って行かれてやしないかと頭の片隅で思っていたのだが、杞憂だったようだ。"それ"は昼間放り込んだ時のまま、『いらないもの』の箱の中で静かに埋もれ、こちらに顔を覗かせていた。私は段ボール箱のすぐそばにしゃがみ込み、丁寧にそれを取り出した。部屋の中は暗かったが、廊下からの明かりに照らされてうっすらとそれの目や服の色が見えるようになっていた。

"これ"を初めて口に含んだのは、恐らく小学生の頃だ。あの頃これは妹の普段の遊び道具として、居間のおもちゃ入れの一番上に他の仲間たちと仲良く収まっていたと記憶している。私は当時思春期が始まりかけていたこともあるが、世間一般の普通の男の子らしく妹のおもちゃには一切興味を示さないでいた。

しかし、"これ"だけは別だった。誰かが起きて居間にいる間こそ見向きもしなかったのだが、例えば無性に早く目が覚めた朝の五時、音もなく居間へと降りてきた私はおもちゃ入れの中からこれをそっと取り出し、眺め、匂いを嗅ぎ、やがて気持ちに変化が現れてくると顔や体に擦りつけて、そして時に口に含んだりもしていた。

ただ、その時のことを思い出し今こうして手に取ったところで当時と同じ気持ちになることはない。私はそのことに少し安堵すると共に、何か薄ら寂しいような、失望したような、言いようのない切ない気持ちを感じた。そして、馬鹿げたこととは知りながらも、私はいま、顔の近くまで"それ"を持ち上げ、指先をスカートの裾へと伸ばしていった。

「ぴりりりりりりりり」

突然どこからか鳴り響いた警告に心臓が止まりそうになって大きく息を吸い込んだ。音は私のポケットから鳴っていた。私はなぜか手にした"それ"を持ったまま廊下の反対側にある自分の部屋へと駆け込んでドアを閉め、携帯を取り出した。着信は妻からのものだった。

「はい、もしもし」

「久しぶり。もう晩ご飯は食べた?」

二、三言会話をしたのだが、どうやら別に用事はないらしく、家で一人でテレビを見ていて暇だったから電話をしたとのことだった。着信のあったタイミングも作用し、私は何か自分の密やかな試みが全て見透かされていたように感じ、ひどく妻への怒りがこみ上げてきた。

「用事、別にないんだね」

「え? いや、ないけど。何、用事がなかったら電話しちゃだめなの?」

さすがに妻の語気にも少し苛立ったような気色が見えたが、私は「久々に再開した家族との時間だから」と適当に言ったきり通話を切ってしまった。

通話を追えると私はすぐに携帯電話を操作して電波を発しないように切り替えた。さすがに追ってメールや電話が来ることはないだろうが、妻は恐らく怒っているだろう。決まっている。私がわざわざ怒らせたのだ。

明かりもつけていない閉め切った部屋の中、緊張が解けたことに一息ついてそっと下を見ると、右手に持った携帯電話がしゃがんだ私の腹の辺りと左手に持った人形を照らしていた。なぜ私が今、妻を電話越しに怒らせて真っ暗な部屋でこんなことをしているのか、自分のことながら理解ができなかった。それでも、私はもはや自分の気持ちなのかどうかもわからない謎の力に動かされながら、もぞもぞと態勢を整え、携帯電話の画面を左手の方へと向けた。

液晶ディスプレイのバックライトが、彼女の青い髪とセーラー服の青いスカートを暗闇の中に浮かび上がらせる。

今度こそ、指がスカートの裾へとたどり着く。鼓動が早まるように感じるが、さっきの着信音のせいだろう。鼻息が荒いのも、部屋の蒸し暑さのせいだと思う。

早いところ、確認してしまおう。

スカートの下を、スカートの下は。

白い。白。これは、綿だ。暗いけど、触ると、わかる。

綿の白い下着。

綿の、白い、下着。

閉め切った部屋の中、飲み下した唾液を追いかけるように、首筋からみぞおちへと一筋の汗が流れ落ちていった。

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