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立ち食い蕎麦屋のバイトから始まってその後インドネシアに住み昨年帰国したサラリーマンの話 その6

最大の賭けと愕然とした事

「そこまで当社に不満があるなら、他の業者様を使った方がいいですよ。
当社は御社にお支払い頂くまで、新しい仕事は受けられませんので、他社様のサービスを試す、いい機会となされて下さい」

最大の賭けであった。勿論事前に社内で社長の了承を得たうえでの発言ではある。もしかするとそのまま支払って来ないかも知れない、然しながらこのままズルズルと仕事を受け続け支払いがされなかったら、債権がどんどん膨らんでいき、P/L上は黒字だが、運転資金が不足し、黒字倒産しかねない。

月末、全ての債権が入金された。同時に新しい仕事の書類を引き取りに来て欲しいと言う。おそらく他の業者を使ったが、サービスが悪かったのか、それとも何か使い勝手が悪かったのだろう。
(例えば前払い条件を要求されたとか)
連絡を受けた社員に「もう御社とはお取引しません。」と返答させ、書類も引取らなかった。全て債権が入金されても、取引を再開すればまた同じ事を繰り返すに違いないからだ。

その女性社長からワタシの携帯へ電話があった。物凄い剣幕で「全て支払ったじゃないか、なんで断るんだ」ワタシは丁寧に、「社長の仰る通り当社のサービスは良くないと思います。もう一度社員を再教育し、ご納得頂けるサービスが提供出来るようになるまで、申し訳ありませんがご遠慮させて下さい。」

女性社長は伝手を辿って色んな方に話をした様子、色んな方から「取引再開してあげなよ」という連絡があったが、丁重にお断りしこの会社との取引きは完全に終了とした。何とか作戦勝ちとなった訳だ。

この件で、愕然とした事があった。

社内の幹部社員は「なんであんな儲かる商売を止めるんだ」とワタシに食って掛かってきた。この女性社長と懇意にしており、何度か食事会などもやっていた模様。更にワタシの前任から「いいから取引を続けろ」そう言われていた様である。

書類上どれだけ利益を計上しても、実際にお金が入ってこなければ資金が回らない。資本金の小さい会社であったため、銀行からの借り入れもあり、入金されるまで当社が金利を負担し続ける事にもなる。

決してこの幹部社員を馬鹿にした訳ではないが、こんな例えで説明した。
「君は食堂の店主。お客さんが来てMie Ayam(鳥そば)の注文を受けた。お客さんはそれを全部食べた。でも美味しくなかったから、お金は払えないと言われたとする。君は材料を買った、調味料も買った、お店の家賃も払っている、君の人件費もかかる、それでも君はしょうがないねと言うの?」

上手い不味いは関係なく、食べたんだから払うのは当然。

この説明で彼はその取引先との取引停止が腹落ちした模様。幹部社員であってもこのレベルかと、ワタシは愕然とした訳だ。
また請求書も完全に作れない、作らない?未回収債権があっても気にしない?この会社のレベルを底上げするのはかなり厳しい事だと認識した。

幹部社員は英語が話せるから、さほどコミュニケーションは困らないと言われていたが、それ以前にワタシの英語力は酷いものであった。ただでさえ不得手なうえに、独特のインドネシア人のイントネーションも加わり、オーラルでの意思疎通は困難を極めた。
毎朝アパートで英語とインドネシア語の独学を続けていたが、どちらかに絞らないと事態は改善しない、2つ同時並行して修得できる能力はワタシには備わっていない。

ワタシは「インドネシア語」を選択する事とした。

文法は完全に無視、まずは単語をひたすら暗記する事にした。
日本からの出張者に「お土産は何がいい?」と聞かれ「単語帳」と返答し、随分驚かれた。車の中は読み書きが困難なので、Walkmanに録音したインドネシア語を必死に聞く、アパートではテレビも日本の番組は一切見ず、インドネシアの番組を見る。ニュースは早口過ぎて全く聞き取れないので、幼児向け番組を見る。それでもハードルは高い。

3か月経過した頃、ワタシでは駐在員が務まらない、そう思い始める。

4か月目、仕事が終わってからSoekarno Hatta空港へ行き、クビ覚悟で夜行便に乗って日本に逃げ帰ろうと考えたが、家族の顔が浮かび「あと一日だけ頑張ってみよう」そう思いとどまり、アパートへ帰る。

5か月目、やっぱり無理だわ、家族に申し訳ないが日本で転職先を探しやり直そう、そう諦めがつき、空港のGaluda Indnesia航空のチケットカウンターへ並んだが、何故かまた、もう一度「あと一日だけ頑張ってみよう」そう思いとどまり、アパートへ帰る。

何度同じことを繰り返しているんだ、優柔不断なのか、土俵際に強いのか。

半年経過した頃

取引先の方に誘われ焼肉を食べに行った。その方(T君)の友人、またその友人と輪が広がり、仕事は苦境続きであったがプライベートでストレス発散出来る環境が出来上がり、「日本に逃げ帰ろう」の思いは無くなった。
彼らはサッカーチームを作り、インドネシアライフを楽しんでいた。サッカーは参加出来ないが、ゴルフや飲み会にご一緒させて頂き、一気にプライベートが豊かに変わった。
彼らとの出逢いがなかったら、間違いなくどこかのタイミングで日本へ逃げ帰ってクビになっていたに違いない、今でもそう確信している。

彼らは皆インドネシア語がとても堪能であった。
なぜそこまで堪能になったのか、ある日その理由が分かった。