死んでいないから生きている

ダーウィンの進化論を社会に適用するのは過ちだというのが話題になっている。 日本がキリスト教国ではないという現実が一番実感されるのは進化論なのだが、キリスト教ベースの道徳は「文明」として日本にも流れ込んできているので、キリスト教由来の道徳を「正しい」道徳として浅い理解で取り込んでしまっているせいで、こういう問題が起こる。そして批判されるとなぜ批判されているかわからなくて、大げさな理解できない反応してると、言う感想を抱いてしまう。批判側はシリアスな問題なのだと伝えたくてナチスとか持ち出すので、ますます論点がずれて行ってしまう。

キリスト教は神が自分の姿に似せて人間を作った、人間は神が作った他の生物を支配する地位を与えられたと伝える。単純な神話だが、長い間の「聖書は真実だと証明したい」信仰活動の中で、この伝説の説明はひどく複雑なものになってしまった。特に科学が出現したあとは、知的活動を独占的に担っていたキリスト教修道士たちにとって、新しく出現した科学者たちに知的リーだーの地位を奪われてしまわないように(そして科学を道徳の下に置き続けることができるように)聖書の教えと科学的な新発見を調和させるのは必須の仕事となった。

幸か不幸か、ごくシンプルな神道の世界観と、巨大で抽象的な宇宙概念を持っている仏教の影響下にある日本はこうした苦労はまるっきり経験していない。キリスト教圏でよく耳にする究極の問い、「我々はどこからきてどこに行くのか?」と問うこともない。どこからか来て、生まれ変わりを繰り返し、たまたま仏の慈悲によって悟ることがあれば極楽に行くと漠然と考えていて、それで問題なく生きているのではないだろうか。

キリスト教圏では、死後天国に受け入れられるかは大問題だし、神に似せて作られた人間だけが魂を持っていて妖精などの超自然の存在や動物とは違うはずだし、さらに進化論が進化と言う概念を持ち込んでからは、下等な単細胞動物からもっと高等な生物、さらに人間に進化して、その先は神に近づくのでは?と考えてしまう。ダーウィン自身も下等、高等と言う考え方を持っていたようだが、彼の研究が描き出したのは、生物がより上を目指して変化していくのではなく、たまたま死なずに生き残ったものがどうして生き残ったのかと考えると、環境に適応してたからだという事実だった。最も適したものが生き残るのではなく、後から見ると、生き残ったのは最も適応してたものだったということなのだ。誰も目的を持って上を目指してなどいない。誰かがうまく生き残るかもしれないと死ぬまで日々を生きる。変わり者を排除しない方が生き残るものが増えるかもしれない。ずるい奴の方が生き残るかもしれない。それが進化論が示している世界だ。

キリスト教の縛りがない世界に生まれたのを幸いに、死なないから生きていると緩く日々を送っていくのがいいのだろうなと時々思う。


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