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神戸、喫茶店、母とふたり。

「蔦がからまったレンガ造りの喫茶店で、本を読んでみたい。」

ソファでごろごろしながら言ったのは、ただの思い付きだった。小説か映画か、とにかく現実ではない何かで見た、憧れをそのまま口にした、それだけのこと。

「素敵!そんな素敵な休日、私も過ごしてみたい。」

明るい声で返したのは母だった。子供のころから母とはとにかく気が合うのだ。鏡か、と思うくらいに。それから私たちは好き勝手に妄想を広げた。扉は重厚で、外から中が見えない、とか、なかはちょっと暗くて、照明はオレンジだ、とか、いかにもアンティークな家具はとても座り心地がよくて、深呼吸すると珈琲のいい香りがする、とか。

楽しそうな母を見ているうちに、私はだんだんと使命感が生まれてきた。空想のなかにしかないこの喫茶店を見つけて、母を連れていきたい。とすると、急がなければ。私は久しぶりの休暇で、実家に帰っていた。明後日には新幹線の予約がある。行くとすれば明日しかなかった。

神戸だ、と私は思った。頭のなかに浮かんだのは、高校生のときの記憶。遠足で異人館街に行ったのだ。童話のなかでしか見たことがないような洋風の建物にうっとりして、夢のような街だと憧れた。おしゃれで、レンガ造りで、アンティークな喫茶店。なかなかない条件だけど、神戸にならきっとある。神戸なら、遠いもののなんとか日帰りで行ける距離だ。

「神戸 喫茶店 おしゃれ アンティーク」・・・何通りかで検索をかけ、ついに見つけた。そこはかつて会員制だった喫茶店で、パソコン越しの画面を見る限りは、完璧に条件を満たしているように見えた。私は母に、喫茶店の写真を見せた。明日の予定が決まった。ふたりできゃあきゃあ言いながら、思いつく限りのおしゃれな服を用意し、子供みたいにそわそわしながら寝た。

翌日。神戸についた私たちは、本屋でめいめい夢の時間を過ごすための本を選び、少し迷子になりながらもその喫茶店に向かった。

近づいただけで、そこは夢の世界だった。レンガに蔦がからまるだけでなく、観葉植物が綺麗に植えられている。少し古さを感じる上品な看板を、おしゃれなランプがオレンジ色で照らしていた。会員制だった名残なのか、レジとは異なる位置に受付のようなものがある。

「会員制の喫茶店でお茶する、なんて、私たち、もしかしてマダムかしらね」

小声で冗談を言いながら、私たちは順番を待った。こころもち背筋がぴんとして、ちょっとすました顔になった。

ようやく名前を呼ばれて中に入ると、店内は思ったよりも天井が高く、焦げ茶色の重厚な家具で囲まれていた。想像通り、少し暗くて、オレンジ色のあかりがあたたかい雰囲気を作っていた。ふかふかの絨毯をふみしめながらふかふかの席につき、まわりをきょろきょろした。想像した通りだ。うっとりしていると、店員さんにメニューを渡された。メニューの表紙はまさかの木だった。鍵の模様と店名がおしゃれに彫られている。メニューだといわれなければ、呪文が書かれた魔法の書みたいだ、と私は思った。

ここはケーキがとてもおいしくて、コスパ的にもケーキセットが一番おすすめ、というのは事前にインターネットで調べていたし、母にも伝えていた。そのために、ランチのデザートも我慢したのだ。私はもちろんケーキセットを選んだ。散々私もケーキセットにする、と言っていたはずなのに、母はなぜか直前でナッツコーヒーに浮気した。あんなに説明したのに。私は少しあきれながらも、母の柔軟性がうらやましいと思った。

そんなに待つことなく、注文の品が運ばれてきた。母は、砂糖とミルクが銀食器であることにしきりに感動していた。なんでも、銀食器は高価なうえ手入れが大変で、最近はめっきり見かけなくなった、とのこと。いわれてみると、銀食器のなかで角砂糖もミルクもなんとなくすましているように見える。普段断然ブラック派にもかかわらず、私は角砂糖をひとつ入れてみた。スプーンでくるくる混ぜると、角砂糖は珈琲の表面をキラキラさせながら、すぅっと溶けていった。

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私たちは、結局本を読まなかった。かばんから本を出すのすら忘れてしまったのだ。だから前日の夢は半分かなって、半分かなわなかったことになる。私たちは、ひとくち珈琲を飲み、素敵な場所だね、とか、幸せだね、とか何度も言い、ケーキをわけっこしながら、ゆっくりゆっくりいろんな話をした。昔の思い出、最近のこと、これからのこと。待っていた間のそわそわした気持ちはすっかり消えていて、二人ともすっかりリラックスして時間を過ごした。

神戸。

街の名前を聞くと、いつもあの喫茶店を思い出す。ちょっとした思いつきと行動で生まれた、あんなに穏やかで幸せな時間。だからやっぱり今でも、神戸は夢のような街だ、と思うのだ。

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