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疑り深く、超悲観的だった私

人生の前半では楽観的で、本気で不可能は無いと思っていたタイプでした。
が、ある時期を境に、とにかく疑り深いし、口を開けば「もう無理」「もうだめだ」しか出てこないような超悲観的になりました。

あの疑り深さは異常で、良いことを聞けば「本当なの!?」と思い、それが本当なのか嘘なのかを徹底的に探し回り
「それは嘘だ」となると、またそれに対しても「本当なの!?」とやりだすという状態でした。
そして、本当か嘘かに翻弄されては疲弊して「もう無理」「もうだめ」しか言わない。
本当にあの頃の私はウザイを通り超えて異常でした。

*    *

そこまで疑り深く、悲観的になったキッカケは実はとても些細なことでした。

当時、私は自分が生まれてきた理由の一つでもある事の実現のために行動していました。
最初は叶う、とか叶わないという事が重要ではなく「私がそうしたいから」というだけで行動していて
山あり谷ありでしたが、それでも「私がそうしたい」だけで行動すると
色々なミラクルも起こり良い流れに乗っかっている状態でした。

ある日、友人や知人が集まる場で「占いの勉強を始めた。練習させてほしい」という人がいて
「じゃぁ、〇〇は叶うか叶わないかを知りたい!」と軽い気持ちでお願いし
その人から「絶対にうまくいく。大丈夫!!」と太鼓判を押されたのです。

が、のちに「でも、この人って勉強中って言ってたよね。ってことは本当にうまく行くの?大丈夫?勉強中の人の大丈夫って嘘ってことない?」と考えるようになり(占ってくれた方にとても失礼なことを言ってるのは分かった上で書いてます)
大丈夫は本当なのか?を知るためにプロの占い師に占ってもらい始め・・・
そこから疑り深く、超悲観的な私に一瞬で切り替わり
あれだけ確信していた感覚も完全にゼロになったのです。

*     *

あの時は疑いたい自分、悲観的な発言をしたい自分を止めることが出来ず
もう、その「したい自分」の言いなりになっていて
ひたすら他人を疑い、悲観的な発言を繰り返すという迷惑行為を散々繰り返していました。

でも、徐々に周囲の迷惑も省みずに「したい自分」に流されているだけになっている事に気づき始めたころ
私の中でずっと「叶う」という確信があったのに、その確信よりも他人の言葉を優先したことがすべての始まりだ、という事
「叶う」を信じ続けたかっただけだった、という事に気づいたのです。

疑う理由も超悲観的なのも、自分の感覚(確信)に意識を向けるのを自分でやめたから。
でも、どれだけ疑って、超悲観的になっても自分の心の奥底には「叶う」という感覚がわずかに残っていて
でも、私はもうメチャクチャな状態すぎて、自分ではそのわずかな感覚を拾い上げる事が出来ないから、その感覚を私の代わりに誰かに拾い上げて欲しかった。
そのために占いだのリーディングだのに頼りまくった。
でも、その感覚を拾い上げてくれる人は自分以外には居ない。
という事を理解したのでした。

そこに気づいたから疑う事も、悲観的な自分も消えました!なんて事は一切なく、
気づきの後も常に疑いと悲観的思考で自分は埋め尽くされていましたが
それでも、「叶う」という感覚を自分が拾い上げる努力をとにかく続けたのです。

最初は全くうまく行かなくて、本当に試行錯誤しました。
でも、いろんな感情に向き合う中で自分のエゴの癖、傾向を掴み
「こういう流れが来たから、そろそろエゴがまた疑いはじめるな」という事も分かるようになり
疑いたくなる自分に流されることが徐々に減りました。

*     *

あの当時の事を振り返ると、まさに「異常」
でも、最初は楽観的だったため、楽観的なのが本来の私で
あの疑り深さと超悲観的な状態は本来の私じゃないと思っていましたが
実は疑り深く、超悲観的な私が本来の自分だったんだと。(魂の性質ではなくエゴが作った地球を生き抜くための術という意味)

でも、人と繋がりたい、仲良くしたい、信頼したいという思いを持っている私にとって疑り深く、超悲観的な私は邪魔なだけ。
でも、やめられない。

だから、一時的にでも「楽観的で不可能は無いって思うのは心地よい」と経験出して「疑り深くて悲観的な生き方はもう嫌」と思いたかったんだと今では思います。

あの時間はキツかったけど、エゴの自分を終わらせるために必要不可欠な過程だったんだも。
どんな過程であっても、その人が幸せになるための、というのは本当だと思うけど、そこに気づくのは簡単じゃないなと思います。






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