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19日のひとりごと

19日。櫻井さんの月命日なので、なんか書いてみようかと思います。

親の月命日すらあまり気にしないもので、つい最近まで19日というのもひと月の中の1日という感じで、そこまで気にしてはいなかったのですが。
SNSを見ているうちに頭にインプットされたようで、ここ何ヵ月かは前もって思い出したりしています。9ヵ月、早いな。1年なんて、もうあっという間に来る。

1年前のこの時期、私はBUCK-TICKのばの字も聴いていませんでした。
高校時代の友達にBUCK-TICKファンがいて、別のバンドが好きだった私は彼女とよくCDの貸し借りをして、彼女から当時出ている全音源を貸してもらった。たしか、惡の華まで。狂った太陽だったかも。
でも聴いた当時は、声があんまり好きじゃなくて、聴きこむまではいかなかった。

去年の冬、献花式があった頃。そういえば高校のときにちょっと聴いたけど、ああ、同じメンバーでずっとやっていたのか、すごいなあ。今はどんな感じだったんだろうと、ちょっとだけ聴くつもりでサブスク漁ってみた。

同じバンドですか、これ。
唄ってるの、同じ人ですか?!!

以来、現在まで一気にいろいろ見聴きしていて、曲を聴くのはもう本当に楽しいのですが、櫻井さんがもういないという事については、時間が経つほどにきつい。今まで素通りしてきたことがとても悔しい。
都内から遠くに引っ越して、音楽からちょっと気持ちが離れていた時期もあり、もっと早い時に聴くチャンスがあったかどうかはわからないけど。

別れが出会いってきつい。

前にも似たようなことはあった。スカパラの青木さんが急逝した時。青木さん大好きだったからちょっと周りに心配をかけるぐらい落ち込んだ。
しかし、青木さんの時ってこれほどだったかな。思い出したいけど、もう25年前のことで、あんまり覚えていない。それだけ青木さんへの思いもいい感じで昇華されたんだなと安堵したり寂しくなったり。きっと友達とかに聞いたらわかることもあるんだろうけど、なんかこっぱずかしいことをいろいろ思い出しそうで、聞きたくない。
なんとなく大丈夫だなと思えるようになってきたのは、何年後だったか。何年もかかったような気がしている。
これだけ朧気な記憶になってしまっているので、櫻井さんのことももはや、新しいダメージとして受け止めざるを得ない。

一番観たい人、声を聴きたい人がもういない。
観れるときに観なかった、もっとこまめに情報拾っとけよーと、自分で自分に腹が立つ。ちょっとでも聴いたことがあっただけに余計悔しい。
生で観ること、聴くことだけがすべてではない。そのものに触れたところからしかスタートできないと思っても、感情はなかなか納得してくれない。同じところをぐるぐるしている。ぐるぐるしていないと頭の中で風化してしまいそうなのが嫌で、わざとぐるぐるさせているようにも思う。

ただ、希望が全然ないように思えても、形を変えていろいろとサプライズが起こることもある。そこには自分の思い込みも加味されて、何か降ってくるような感じがする。与えられてる感じ、自分で自分を癒す感じ。虚しいと思わないよう、意識して素直に受け止める。それで結構救われる思いにもなっています。

今回も普段の自分なら無いようなご縁があったり、うれしい出来事も起こったりしている。BUCK-TICKを聴くことがなかったら、櫻井さんを知ることがなかったら起こり得なかったことが。ありがたいなと思うと同時に、人生何が起こるかわからないというのを実感している。
人生は容赦ない、でも先に進む価値はあるということを自身に言い聞かせていきたい。
何より好きな音楽が増えたっていうのは、後々まで続く歓びだ。

別れが出会い。まだ私は心穏やかではいられませんが、あっちゃんは穏やかでありますように。