■ ワシーリー・グロスマンの言葉を契機に-全体主義、守銭奴、 #四種類の買収 を考える

■ ワシーリー・グロスマンの言葉を契機に-全体主義、守銭奴、 #四種類の買収 を考える

 私は「罪は個人にのみある」と堅く信じ、それは自明の真理だとみなしてます。「すべての人は行為の善悪を識別できる」、これも私の信念であり、自明の真理だとみてます。
 この二つのどちらか一つ、あるいは、両方とも、真でないならば、人間は生化学・生理学等の作用に完全に還元できる機械みたいなものに過ぎないということ。そう思う。そうではないでしょうか。
 私の思考・感情・意志が一致して、この二つの命題を真と悟るにいたったのは、ハンナ・アレント先生(ユダヤ人政治哲学者)のおかけ。彼女の著作と彼女の思考に関する書物を読み始めて今現在で32年。「私」が50歳にして、やっと「悟った」気持ちになったのは、2011年の大震災から一年を経過したある日でした。その日までは、二つの真理も、アレントの思想も、「思考」で「理解」していたに過ぎなかった....。
 
 極めて長くなりますが、本日(2015/02/24)、twitter/facebookに載せたグロスマンの言葉から始めて、思うところを語らせていただきます。(この長い文章はfacebook/twitshortに掲載します。)

■全体主義者(安倍総理やイスラム国の構成員等)よ、真理の言葉を聞け
 "死刑執行人に対する裁きは一つ。
 犠牲者を人間とみなさないことで、自分自身が人間ではなくなるのです。
 自分自身の中で人間を死刑にする。
 自分自身の死刑執行人になるのです。
 一方殺された人は、どんな殺され方をしようとも、永遠に人間として留まるのです"

 この言葉はワシーリー・グロスマン(ソビエト・ロシアのスターリン時代とその後に生きたユダヤ人)の『万物は流転する』から。至言であります。
 「天に唾すると自らにふりかかる」の如き因果応報の真理を示すことわざが幾種類もあります。キリスト教を含めて、多くの宗教「団体」の主張は「悪をなしたら死後に地獄に墜ちる」、「あなたの不幸は先祖様の悪行からきている」、「あなたが善をなしたら、いつか貴方にいいことがある、子孫にいいことがある」のような、御利益を唱えています。善行には御利益、悪行には報復とのごとき宗教の「主張」は、いろいろな意味で欺瞞です。直ちに、速やかに行為者その人に結果が出ることは物理的にあり得ないことを宗教「団体」はわかっているので、死後あるいは子孫に、あるいはその人個人に何年か後に、結果が出ると「主張」している。このような戦術は、人を善行に導いたり、悪行を回避するにはある程度は実効的ではありますが、うさんくさい。そもそもある人物の善あるいは悪の行為に対して、神とか天あるいは仏様が、「報いる」から、善をなしたり、悪をさけるなんてのは、見苦しい。善行はそれ自体が善だから、心に従ってするべきこと。悪行をすることは、自分自身の生命を汚すから避けるし、他者が悪行をしようとする時にそれを避けるように助言したり、その遂行を妨げる努力をするべき。
 グロスマンの言葉は、悪行の遂行は__即座に__その人を悪人にするという真理を示してのです。そうではないでしょうか。因果応報は神・天・自然の摂理とか、人間を超えた絶対者の存在を前提としますが、グロスマンの言葉は超越者の介在を前提・必要と__しません__。直ちにすべての人間の魂と精神に響きます。驚かせてくれます。
 グロスマンのその言葉について思考すればするほど、なるほどそうだと感得するほかない。その言葉は一般抽象的ではありますが、具体個別的状況において、「自分は、何をすべきか、してはならないことは何か」を__その都度__熟慮させる力を有すると思います。私達の日々の労働現場において、労働以外の私的場所(家庭内等)あるいは公的な場(街頭やシンポジウムなど)にて、その時々の具体個別的状況において、人間としてふさわしいことを実行する助けとなると思う。グロスマンの至言は、私達の思考・感情・意志の三要素が一致して、行動することを可能とすると思う。
 
■守銭奴
 さて、私が用いる守銭奴という用語は、超国家企業や一国内の軍需産業複合体(武器製造業だけでなくIT企業も)という触知可能で簡単に知ることができる実体を示してます。
 守銭奴は「非人」であり、人間(集団)ではありません。人間ではない実体である守銭奴に関しては、その存在・起源・構造・作用・機能をつまびらかに周知することだけしかできません。守銭奴それ自体を非難することは、「蛙の面にションベン・馬耳東風・暖簾に腕押し」等のことわざが示すごとく無効であります。非人に対して、人が何を言っても効果がないことは、雨が降る現実に直面して、雨を呪うようなもの。守銭奴はそこに、あそこに存在する自然現象であり、実体なのですから。
 守銭奴の恐るべき実行力・実効力は四種類の買収(その対象→議員、マスコミ、学者、官僚)を可能とする金力にあることは言うまでもありません。四種類の買収が最もすさまじいのはアメリカにおいてであり、EU諸国の多くもそうなっています。日本はアメリカやEU諸国と比較したら、はるかにマシだと私は見てます。中国とロシアもまだマシ。
 守銭奴による四種類の買収は、一国の議会においては主として法律の改変の形をとります。スローガンはほとんど常に「みんなが豊かになるため」の経済成長のための「改革」。規制の撤廃・緩和(労働者の搾取容易化、食品の安全基準緩和、自国の産業保護削減など)および減税(累進課税緩和、資産と不労所得の税率軽減)が、先進国はもとより発展途上国でも次々に実現されてきました。その結果、守銭奴が支払う税金はどんどん減り、内部留保という金力の源泉は増大するばかり。
 守銭奴の金力増大は、すなわち法律の改変力増大となり、この二十年余りの間には、一国内で悪辣な法改正がなされることよりも更に悪いことがおきています。恐るべきことに国民国家"群"の守銭奴への「集団降伏」に他ならない自由貿易協定(FTA)がいくつも成立してきました。北米FTAや米韓FTA等による米国民・韓国民・カナダ国民・メキシコ国民の被害については、よく知られておりますから、ここでは語りません。守銭奴のみが潤い、ますます金力が高まりました。
 FTAをはるかに超える恐るべき「国民国家群の守銭奴への集団降伏」はTPPであります。TPPは国民国家より守銭奴が上位になる条約であり、TPPによる最悪の被害者は間違いなく米国民(の99%)であり、二番目の被害は日本国民となります。
 補足しますと、守銭奴の実体には超国家企業と日米等の巨大企業群だけではなく、IMFと世界銀行も含みます。もともとのIMF・世界銀行は、国民国家の生成途上にある国々の経済的かつ人間的システムの発展を目指すための存在でしたが、創設されてから20年以内に、守銭奴の奴隷であるミルトン・フリードマンらの「経済学者・エコノミスト」道具となりました。どちらも非人である機構・組織、つまり非人なので、守銭奴の定義に外形的にも実態としてもあてはまります。一つの国民国家が経済的に危機になれば、アルゼンチンなどの中南米諸国の実例が示すように、IMF・世界銀行は「金を貸す。ただし、条件は中央政府の予算削減、つまり緊縮財政。社会保障を削減しろ、国有企業・財産を民間企業に売れ、最低賃金を下げろ..」。欧州中央銀行とドイツ銀行もIMF・世界銀行のごとき、守銭奴そのものになっていることは、ギリシアやスペインの経済的危機への対応をみてもわかる通り。

■守銭奴による「四種類の買収」、守銭奴の奴隷
 ここで、「罪は個人にのみある」という話に戻ります。私がよく言う「守銭奴の奴隷」という言葉を解説します。奴隷は一人一人の個人を指します。名前を特定できる実在する諸個人が奴隷なのです。守銭奴の奴隷に関しての形容詞として、ふさわしいのは「人非人」という用語。「人にあらざる人」ということですね。「人間としてふさわしくない行為をする人」。それでも人間ではあるのです。守銭奴の奴隷は「人非人」と表現される名前がある個人、生身の人間であります。守銭奴の実体である超国家企業群・一国の巨大企業(軍需産業、東京電力等)・IMF・世界銀行・欧州中央銀行等の「非人」と、その奴隷は存在する次元が異なります。
 「市民・国民・主権者」達という生身の人間(集団)は守銭奴(非人)の作用を直接的に抑制することは原理的にできません。守銭奴を規制・抑制できるのは、国 country の構成要素の一つである国家 state という道具のみ。国家はとてもとても大切な道具なのです。その国家が守銭奴とその奴隷により「奴隷化」しているのが、この地球で起きている現実。
 守銭奴の奴隷とは誰かについて、語る前に、長々と解説させていただきます。
 念のための確認です。国 country という実体の構成要素を列挙します。国の必須要素は国土(領土:陸、海、空)と国民 nationであり、必ずしも国家 state を必要としないし、国家 state がない「国」は今でもいくらでもあるし、江戸時代の日本国のように昔はたくさんありました。

 国家 state は立法府、司法府、行政府より構成されるわけですが、国家が創設された理由・動機は「人々が平和に生きる権利」を守るため and/or 確立するため。封建制における貴族・軍閥や王による人々の搾取・迫害を抑制・禁止するため。抑圧からの解放 liberty のため、同時に人々がその人らしく生きる自由(権利)= freedom のために、この地球で国家が発生したり、創設された。フランス革命やアメリカ独立革命は自由と権利のための偉大な革命の好例であり、どちらも国家 state という道具を創設した。人民の権力が効果的に働く機構としての国家を創設したのであり、人々のの意見が一致するところにのみ存在する「真の意味での権力」の現れとして、国家が創設・成立。国家の機能・作用は人々を圧政から解放し、一人一人が自由に生きることであります。国家とは法律を機能させることに最大の作用を有します。法律は国民全員の無償教育とか、社会保障など様々な社会的要請実現のために具体個別的課題に応じて作られ、課題実現のための財源は個人所得と資産に関する累進課税が基本。「他国」の侵略から自国(国民と領土および国家)を守るための国民軍の創設・維持は副次的なものです。国家の存在理由は国民の(搾取・迫害からの)解放と自由にあり、国を防衛する機能だけならば王政・封建制でも多くの場合は十分。
 国家が体現する真理は:
 
 ★法律なくして自由なし
 ★国家なくして、法律なし
 
 法律の遵守を担保する行政・司法なくして、人々の自由など守られないことは自明。そのために国家 state がある。国家の三要素(司法、行政、立法)を規制するルールが憲法であることは言うまでもありません。憲法は国 country の二つの必須構成要素の一つ国民 nation が国家 stateのすべきこと、してはならないことを定めるルール。国民が国家をという道具を創設するにあたり、「国家の構成要素・目的・手段を一般抽象的かつ具体個別的に定義し、国家の暴走を阻止するための禁止事項を一般抽象的かつ具体個別的に列挙する」のが憲法という(これまた)道具。国家という道具を有効活用するための道具が憲法でありますから、国民は憲法の中にそれを改正する手続きを明確に定めている。
 

 ここまでは長い前置き。
 守銭奴による「四種類の買収」、守銭奴の奴隷という主題について、例示しましょう。
 (言うまでも無く、a, b, c, d を守銭奴が買収する手段はそれぞれ、政治献金等、研究資金供与・講演する等ことへの現金給付等、天下り・講演すること等への現金給付等、広告や講演する等ことへの現金給付等。四種類の買収されている人々の中で、ジャーナリストと学者の主たる機能は国民を洗脳することであり、政治家と官僚は国民を強制・脅迫・沈黙する作用を有する。ジャーナリストの圧倒的多数が所属する企業群つまりマスコミには、洗脳に加えて、お笑い番組やスポーツ番組や日々の事件報道で国民の目をそらせる重大な役割も)

a) 政治家: 橋本徹や安倍晋三など、いくらでも例示できる

b) 学者: "上"はミルトン・フリードマンから"下"は竹中平蔵ら、沢山いる

c) 官僚
 なんと、私は守銭奴の奴隷だと断言できる官僚の名前をあげることができません。候補者はいますが、奴隷だと自信を持って言える人物はいない。単に、官僚は匿名・無名性に守られているためだけではないと思う。中央官庁の中で守銭奴の奴隷化が最も深刻になっているのは、外務省、防衛省、財務省、経済産業省、厚生労働省の五つではありますが、これら諸官庁の中には国民全体の利益のために頑張る良心的な官僚がたくさんいます。ある特定の官僚が守銭奴の奴隷としての国会答弁をするようなことは日常茶飯事ですが、いかなる官僚個人をも、私は守銭奴の奴隷と特定することはできなかった、できない。

d) ジャーナリスト
 NHK、産経新聞、読売新聞、日本経済新聞は守銭奴の奴隷としての機能をますます高めていることは明らかですが、それら組織・企業は非人であります。非人には罪がありません。非難することは必要ですが。それらの守銭奴の奴隷としての機能を日々遂行する組織・企業に属する個人の誰一人として、私は守銭奴の奴隷として特定できないのです。
 例えばNHKの大越さん。彼のテレビでの発言あるいは大越さん個人を非難する方が非常に多いのですが、彼は個人的意見をにニュース・ウオッチ9で語っているわけではございません。中央官庁の官僚の誰一人として、守銭奴の奴隷として特定できない事情は、組織・企業に属するジャーナリストについても言える。
 組織に属さないジャーナリストについてはどうでしょう。疑いなく「守銭奴の敵」として屈すること無く活動しているフリー・ジャーナリスト(岩上安見、田中龍作...)の名前は沢山挙げられますが、守銭奴の奴隷であるフリー・ジャーナリストを一人も特定できないです、私には。
 フリー・ジャーナリストには守銭奴の奴隷が現実に一人もいないのでしょうか?
 そのようなフリー・ジャーナリストが一人以上は存在するけれども、守銭奴とその奴隷の「敵」である私の如き人物には見えてないのでしょうか?
 どちらであっても、現実世界の動向には大差がないですね。フリー・ジャーナリストの圧倒的多数は、守銭奴の奴隷化した組織・企業の一員であることに我慢ならなくて、独立したのでしょう。
 守銭奴の奴隷化した組織・企業の一員であったけれども、所属する組織・企業の奴隷化の程度が不足しているために、守銭奴を個人の言説でもっと応援したくて、フリーになったジャーナリストが全くいないとは断言できません。そんな奇特な人物がいたとしても、自由に独立して思考する市民達(国民の1割前後)の99%以上は守銭奴の敵なので彼/彼女らを応援などしない。そんな人達の言説の内容は、そもそも守銭奴の奴隷化したNHKや諸新聞にあふれてますから、大マスコミがそのようなフリー・ジャーナリストの言葉を買う必要はほとんど無いわけですね。
 以上の考察からの結論は、積極的・主体的に守銭奴の奴隷であることに生きる意味を見いだすジャーナリストはフリーになることが困難・不可能に近いということ。逆に言えば、守銭奴の奴隷であり続けることがイヤなジャーナリストは、独立するか、あるいは組織・企業内で「可能な限りの抵抗を継続」する。
 ジャーナリストは、(多くの)政治家や学者とは少し(あるいは大きく)異なり、現実世界の生の人々の生き様を直視することなくして、生計をたてることができません。生の現実を観察したことを文章にしたり、撮影したりして、彼/彼女らは「報告」したり「問題提起」する。ジャーナリストは、国民が知るべき事実を知らせ、国民が考えるべき事実を考えさせるために生きており、それが彼/彼女らの生きがいであり喜びであり、使命であり、社会的機能・役割。

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 守銭奴の奴隷として四類型を提示してきました。官僚とジャーナリストの誰一人として、奴隷だと名前を挙げることができなかった。マスコミという組織・企業ならば、読売新聞などいくらでもあげることができるし、財務省を非難することはできる。
 これに対して、守銭奴の奴隷"である"「政治家と学者」は沢山実在し、個人名を列挙できるのです。
 政治家と学者はどちらも優れて個人事業主と言えます。かなり本質的な意味で。個人としての優れた資質・才能・努力なくして、政治家あるいは学者として飯は食えない。ならば、だからこそ、守銭奴の奴隷になる必然性はないと考えられなくもありません。しかし、現実に政治家と学者という二つの職種に、守銭奴の奴隷が目立つ。目立つのであり、比率が高いわけではないことはもちろん言えます。奴隷化している学者は100人に一人くらいだろうと思えるし、奴隷化した政治家の比率は10人に一人くらいかも知れない。
 それでも、守銭奴の奴隷化した政治家と学者の影響力・実効力は恐ろしいほど強いのが現実です。地球上の先進国のすべてでそうなっているように見えます。政治家と学者の奴隷化率は1980年代から今日に至るまで、一貫して高まっていることは紛れもない事実だと思う。守銭奴の奴隷と化した政治家・学者の影響力・法律改変力(規制緩和、金持ちと企業の減税、消費税増税等)は日々増大している。
 何故、守銭奴の奴隷化した政治家が増大するのか。日本に関しては、小選挙区制度が一つの決定的な要因ではあります。自民党の劣化は間違いなく小選挙区制度によります。学者の奴隷化現象は、大学への国庫補助削減による推進されてきました。他にもいろいろと、学者と政治家を守銭奴の奴隷化する事情はありますが、様々な個別具体的事象だけで、十分に説明できるでしょうか。私は否だと思う。
 守銭奴の奴隷化した個人、つまり特定の名前がある実在する政治家や学者に、私ら主権者が直接に意見を伝えたり、対話する努力が総じて足りなかったと思います。「私ら主権者」と表現しました。主権者の99%は「困った時はお互い様」「国民の生活が第一」と願っていると思います。守銭奴の奴隷の99%もそう願っていると思う。良き国にしたいと願うだけでなく、そのために勉強し、熟慮し、行動しようと覚悟を決めているのは主権者の1%(多くて5%)くらいだと思います。国民の中の1%くらいが、客観的な意味で「人々が平和に生きる権利」「それぞれの人が自分らしく生きる権利」を増進しようと決意してる。このような比率はどの時代もあまり変わらないと思います。そのような人々が、これまで何をしてきたか? 私を含めてですが、どうも以下に示す4種類の批判や非難が中心であり、奴隷達個人に直接対話しようとする努力が決定的に不足していたと思う。

1) 触知も目視もできない非物理的存在、つまり一般抽象的理念=イデオロギーへの攻撃
 難しい理屈で「新自由主義」、「新保守主義」、「国家主義・国粋主義」、「資本主義」、「市場原理主義」を批判したり、難詰すること
 
2) 触知も目視も可能な非人(守銭奴とその影響が強い組織)に対する批判
 つまり、特定の企業(マスコミ、電力会社等)、特定の官庁(検察、警察、財務省とか)、特定の政党について非難・批判する

3) 触知も目視も可能な「人非人」=守銭奴の奴隷に対する"間接的"批判
 奴隷その人に、直接に面会して、相手の気持ち・人格を尊重しつつ、対話する努力をすることなく、新聞・雑誌・メール・twitter・facebookなどの「媒体」を介して、個人を批判するばかり。非難された守銭奴の奴隷個人は、媒体を通して、非難を知ることはありますが、人間対人間の対話が「間接的」批判を契機に生まれることは基本的にありません。ある人が守銭奴の奴隷を新聞の論説で批判した時、その人に面会を求めるようなことは極めて希でしょう。
 私らは、守銭奴の奴隷となっている諸個人に直接に面会する努力を一人一人するべきではないでしょうか。人間は、書物や新聞に書かれている「自分を批判する言葉」によって、考え方を変えることはそんなに多くないと思います。信頼できる人から言われたら、再考する気持ちとなりがち。人間として少なくともまともに見える人から懇願されたら、その人の意見が異なっていても対話する気持ちとなるものだと思う。対話により、自省し、反省し、対話する二人とも意見がよい方向に変わることが現実に少なくない。
 あなたにとって、「あいつは、守銭奴の奴隷だ」と心底から軽蔑し、嫌う人にこそ声をかけていこうではありませんか。同じ意見の人たちだけで、デモ行進したり、集会を開いたり、シンポジウムを開催することは必須ではありますが、それだけでは世界を変えることはなかなかできないのではないでしょうか。
 政治は複数の人間達がかかわるものです。ある人の意見が異なる理由は、守銭奴の買収によるものかも知れませんが、本気のこともあるでしょう。人々の政治的意見の複数性 plurality は人間の条件そのもの(ハンナ・アレント)。複数性・多様さこそ、人間達が発展する条件であり、この条件は永遠に変わるはずありません。
    
     Not a man, men inhabit the world - Hannah Arendt
 
 守銭奴の奴隷の誰一人として、善悪の区別ができないわけではないと私は断定できます。意見の複数性とは異なり、人間としての基本的認知機能は、全人間に共通します。このことは断言できます。少なくとも悪行を認識する能力は全人間にあるのではないでしょうか。
 安倍晋三やヒトラーですら、悪行を実行していることを自覚しているのです。その証拠は非常にしばしば見られる「婉曲語法」の採用。人間は、あからさまな悪を、公衆の前でありのままに公言することをはばかる。ナチスがユダヤ人すべての殺害を「最終的解決」と表現したり、安倍政権が「武器輸出」を「防衛装備移転」としたり。「先軍政治」・「軍事的脅迫による日本国防衛」を「積極的平和主義」(←本来の意味は全くことなる。戦争の原因をなすくことがその本義)と欺瞞的に表現したり。
 安倍晋三やヒトラーのごとき人非人の例とは別の次元で、一般に使用される婉曲語法がいくつもあります。その一例です。

 ・国家による犯罪人殺害を「処刑」と婉曲に言うこと。英語では execution (執行)
 
 ハンナ・アレントはこんなように言ってます
 「思考の結果として真理が見つかることはない。思考の起源は真理なのだ。」
 マックス・ピカートは「言葉は真理から発する」と言う。
 
 殺人は、誰によるものであれ、どんな理由があろうともそれは悪。これが真理。だから、地球上の私の知る限りすべてにおいて、死刑囚を殺すことは諸言語で「処刑」と表現していると思います。

4) 触知も目視も可能な守銭奴とその奴隷の「敵」である非人(組織)や個人に対する間接的批判
 あまりにも文章が長くなったので日本共産党についてのみ語ります。共産党は原発、TPP、消費税増税、特定秘密保護法、集団的自衛権、派遣労働拡大、残業代ゼロ制度などとなどの守銭奴の奴隷による諸政策のすべてに反対してます。それにもかかわらず、これら諸政策に断固反対する諸主権者達の少なからずが、共産党の「あり方」を「間接的に」非難してます。客観的にみて自民党を「補完」しているとか、独善的な言い方が気に食わないとか、「間接的」批判は何百通りもあります。そのような批判をする人々を私は現実世界において、100人以上知ってます。私の友人・知人のことです。そのような間接的非難をする彼/彼女らの中で、共産党の人に直接対話をしている人物は極めて極めて少ないのが事実なのです。対話の試みができないならば、せめて直接的非難(面と向かって)をして欲しいと思います。
 私は原発事故の直後より、しんぶん赤旗を購読開始。自分なりに悟り、直接に共産党の人たちに語りかけるようになりました。積極的に知り合うようにつとめ、相手の話を傾聴し、こちらの意見を言うようにしてきました。対話することにより、共産党の人たちの内在的論理も感情も理解できるようになります。非人である共産党のあり方を変えることはそう簡単にはできませんが、共産党の人との真摯な対話や共同行動により、党の人も自分も少しずつ変わってきていることが実感されます。
 私は12歳から40歳まで反共主義だった。今、共産党を愛してます。共産党の至らないところはいくつも指摘できるし、党の人には語ってきました。愛するということは、存在自体をありがたく思うだけではなく、良い方向に変わることを願い・信じるからであります。

 (2015/02/24 22:58の時点で書きかけ、続きは明日以降)

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