語り得ない事について話すこと、それは意識されていないこと。

心を寄せるのって大変ですね。

言葉には同時に、複数の視点により物事を語るのに全く向いていないと思いません?

まあ向いていないし、もしそれが可能であっても、今度は理解しがたいものであることは疑いようがない。

ある事について話をしようとする際、他の視点ってのはその時消えてしまう。同じ物事、同じ人の語りでも、違う捉え方、話し方になる。

では、真に客観的な事であれば事実が言葉で表現できるのか、と言われればできるのです。それはヴィトゲンシュタインの言う『語り得る事』です。

語り得る事の具体的としては、『何時何分にあるものがある地点にあった』とかでしょうか。時間と固有名詞の概念が共有されている言語であるならば表現出来そうです。みなさん、語り得る事について語る事ができるでしょうか?ま、できると思います。

前期ヴィトゲンシュタイン曰く、こういう事以外は、沈黙しなければならない(するほかない)らしいです。なんせ事実以外を話す事はできるかもしれないが、話す人、話すこと、そのタイミング等で変わるものはナンセンスな訳です。

なんか面倒臭くなってきた。

こっからね、この事実以外が大切なんだよってヴィトゲンシュタインが後期で喋ってからの、

言語ゲームなら、立場が変わる=ゲームが変わったら、言ってる内容も変わるよねからの

同じ立場の状態で二つの違う目線での発話は難しいね、しかたないね。〆

てな感じの話のはずでした。疲れた!

すまんかった。スマホで書くのおじさんなのでつらぽよですわ。やPC1。

次回も!よろしやす!バイバイ!

(feat.ためならおじさん ベイブレード遊びマンで面白いよ!よかったら見てあげてくだしあ。)

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