サイババ体験談⑪
ところが、いくつかのことはインドに行く前とは決定的に違ってしまっていました。
まず、自分の中に屈託が生まれました。
世界がすべて自分の中にある幻想であり、信用に値するものではなかったという体験の記憶を持ったままこの現象世界の中に戻ってきたので、
ではいったいこの世界の中で個人としてのわたしは何をよすがに生きていけばいいのかということが分からず、
虚無感と居心地の悪さと、それをこの世界の誰とも根本的なところで分かち合うことのできない哀しさがありました。
インドに行く前の個人としてのわたしは「宇宙意識」と私が呼んでいた、しかし実際には名前も形もない、しんとした静かなある何かにいつも自分をゆだね、波長を合わせていました。
そのわたしが自分自身をささげていた無相の宇宙意識はおそらくあの超絶的な体験の中で唯一不二の自己として明らかにされ、体現され、
戻ってきた後も消えない記憶として私の個人としての存在の核のように常にあるように感じられました。
つまり、自分をゆだねる対象としてのそれではなくなったようでした。
あの夜の体感は現象世界を超越した輝く実相として自分の中に深く刻み込まれていました。
しかし私は再び自分と世界が別個のものであるような状態に戻ってきたので、
世界の実相に対する絶対的な認識と、実際の生活で感じる自分と世界との分離感という2つの間のギャップは、耐えがたい分裂の痛みとしてすぐに私をさいなめ始めました。
インドに行く以前は、私は透明で、透明で空っぽであるがゆえに誰とでもすぐに溶け合って一体感を味わうことができました。
世界のすべては私の保護者のようで、私はその中で甘やかされていて、世界を愛し愛されていることを楽しんでいました。
わたしはそんな世界を信用していました。
しかしインドから帰ってからは、私の個人性の中に現象世界の奥の真の姿への認識とその記憶が生傷のようにいつまでも新鮮に保持されるようになったので、
私の透明感と世界への信頼による一体感は失われました。
私は世界が信頼できないものであることを知りつつ、自分の内にも安らげる場所を見出せずにいて、そのことは地獄でした。
私はいつどこにいても孤独を感じるようになりました。
しかし元の生活に戻ってしばらくは、インドに行く以前の生活の続きを生きました。
私は自分の体験によって世界を根底からひっくり返されてしまったので、元の生活を楽しめず、
ババの講話の本やらババに関する本を読み始め、自分が何を必要としているのか、そのこと自体を探しました。
インドから帰ってからはいくつか不思議なこともおきていました。
例えば、大学の授業でみんなと同時に種を植えて
(小学校教員養成課程だったので、小学生の授業内容を体験、研究することが多かったです。これもそのひとつでした。)
同じ場所で同じように育てていた朝顔が、インドからから戻って見てみると私の名札のついた2株だけ、他のものの3倍くらい余計に成長していました。
大学の友人知人、先輩後輩たちには私がインドにサイババに会いに行くツアーに参加することは言ってあったので、
その、私のだけあきらかに大きく成長したアサガオを見て後輩は「サイババパワーや」と、喜んで興奮していました。
私に、インドやサイババの体験談を聞きに来る人もいて、みんな興味しんしんでした。
しかし私は自分自身の決定的な体験についてはとても話せず、アシュラムで他の人におこった奇跡の話だとか、世界音楽祭がすごくレベルが高く、すばらしかっただとか、そういう話をしてごまかしていました。
そうこうしているうちに、私からサイババの話を聞いたら自分の身のまわりにも不思議なことが起こった、と、報告してくる人もちらほら出てきました。
願いがかなったとか、小さな奇跡が起こったとか、サイババの顔が目の前の空中に現れたと言っていた人もいました。
私自身、日本に戻っても意識が覚醒し続けているような状態がしばらく続いていて、睡眠をとっているのかとっていないのか自分でよく分かりませんでした。
動物性の食べ物は一切口にできなくなっていました。
開ききっている感覚がまだどこかに残っていたので、
時々友達がしゃべる前に内容を察知して、
すでにしゃべったものと勘違いして答えてしまって戸惑われたことも何度か起こりました。
何かの折にはどこからかババらしき、私だけに大きく響く声が聞こえて、その声によって探し物が見つかったり、
(それは「アジアンジャパニーズ」という旅人の記録のような本だったのですが、最後の写真はプッタパルティで撮られたものでした。)
寝過ごしそうなときに耳元で声がして起こされて重要な試験に間に合ったり、そういうこともありました。
インドでの奇蹟に満ちた日々の大気を日本に持ち込んでしまったような感じでした。
幸い私の周囲の人々、特に美術系の人々はそういうものを受け入れて歓迎して楽しんでいました。
学生時代にはクリスチャンの知り合いも多くて、キリスト教のムードや歌やそういう神を愛するまじめな人たちと一緒にいるのが好きだったのでよくそういう研究会や教会に遊びに行っていたので、
そういう知り合いには自分一人で抱えるのがこらえきれず、自分のインドでの体験の核心を話したりもしました。
そういう人たちの多くは大人になってから信仰の中に生まれなおした、本当に純粋に神を愛している若い人がほとんどだったので、みな真摯に耳を傾けてくれて理解を示してくれました。
インドから日本に戻ってから一ヵ月後に、私は前々から予定していた、膝のじん帯の再建手術を京都のスポーツ整形外科で受けました。
手術は全身麻酔で行われたのですが、手術が終わって個室に移され、
麻酔が切れてきてふと目を覚ますと私の寝ているベッドの足元のほうに明らかにババが普通に立っていました。
ババはスタンドにぶら下げられている点滴を触って調べている様子でした。
「あ、サイババや。」
とわたしも普通に思って見ていると、ババも私が目を覚ましたのに気づいてこちらを向き、
「もっと深く、息を吸いなさい」と言いました。
私は
「はーい。」
と心の中で言って、深々と息を吸いこみ、そのまままた眠りの中へ戻りました。
次に目が覚めた時には頭はもっとはっきりしていて、日本での現実感覚がすでに戻っていて、
ババはもういなくて、
「そういえば、サイババ来てたなあ!!」
と記憶がよみがえり、明らかに奇跡的な出来事に少し興奮しました。
入院していたのはスポーツ整形外科だったので患者は若くて元気のいいスポーツ選手ばかりで、
一般の病院で2ヶ月かかる入院期間もここでは1ヶ月で終わるのが常だったのですが、
わたしはそれよりさらに一週間早く退院しました。
私はそのとき大学の4回生で、卒業後の身の振り方も就職先もほとんど決めていたのですが、
(日本画を専攻していたので、その関係で文化財の修復を請け負う京都の会社で働きながら技術を磨いて、後に独立していずれは自分自身のオリジナルの細密仏画を描こうと思っていました)
インドから帰ってくると、自分の中の落ち着ける要素が全部壊れてしまっていて、とても会社に就職できるような安定した精神状態ではなくなってしまっていました。
インド後は自分が何を求めているのか、何をすべきなのかも分かりませんでした。
インド後は以前の自分とは存在形態がまったく違ってしまってもいたので、
とりあえず大学卒業を半期先送りにしておいて、友人たちが先に卒業して行った後にさらに数ヶ月余分に学生をしました。
その後は誰も以前の自分のことを知らないまったく新しい環境を本能的に求め、
日本の果てである沖縄の八重山の離島へ働きに行き、そこで民宿のヘルパーをしばらくしていました。
離島にいてもやはり苦しかったのですが、そんな暮らしの中、人気のほとんどない大自然の中で奇蹟のように輝く瞬間に何度か遭遇しました。
人のほとんど立ち入らないような場所では素晴らしい生命の輝きがなにも隠されずにすみからすみまで歓喜して満ちあふれてていました。
そのような時はただ打ち震えて感嘆するばかりでした。
そのころの私は自然との強い一体感があり、海や、風や、木々や空気の中の精霊のようなものと意思が通い合っていて、お互い愛の中で感応しあっていました。
歌を歌うと自然がそれに応えました。
日中にはよく、誰も来ない小さな浜辺や木立の中で横たわって身をゆだね、やすらかに昼寝しました。
沖縄の人々や自然に大きく助けられ、なぐさめを与えられ、はぐくまれた日々でした。
そこを手始めとしてその後も滞在場所は日本各地や南アジアなどを主に季節工などをしながら転々と変わり、
状況もそのつど変わり、10年以上がたち、これを書いている2009年の10月に至ります。
その間、ずっとババは別の体やビジョンで現れたり、夢に現れたりして私を導いてきました。
そのころ仕事の昼休みに昼寝していると誰もいないのに肩をトンと突かれ、
「目覚めろ」「思い出せ」と言われているように感じたことも何度かありました。
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