日本社会がまだまだ未熟な理由の一つ。専門家、そして、一個人をどう捉えていますか。

他の国は知りません。他の国と比べて、ではなく、まだまだこの国は発展・進化の余地がある、という意味で、未熟だと思っています。

Twitterで知性が脅かされているとか、そういうのを見掛けました。そして、よく普段から考えているこのことがまた頭の中に現れました。

問題の切り分けというのが適切にできていないことは世の中多いのです。

今日はその中でも、人間に対する評価について。

専門家というのがいます。何かを研究している人だけでなく、一般的な商売でも構いません。どこかの小売店の販売員だって、その分野の専門家です。

その一つでも抜き出ていたり、長く続けられている人は尊敬されるものです。それはもちろん当然のことです。でも、気を付けましょう。

仕事などで秀でた結果を残した人は自信がつくせいか、その他の分野でも尊大に振舞うことがあります。周りが持ち上げるせいもあるでしょう。仕事上、立場が上の人に、家庭人として間違っていると思われてもなかなかそこには突っ込めません。そりゃそうです。でも、実際は、『それはそれ』です。もし、『人』としての通信簿を付けるとしたら、仕事の分野で最高の評価だとしても、親として、恋人としては落第点を付けられることも当然あるのです。

もっと言えば、その分野で詳しく研究していて高評価される専門家でも、その知識を『教えることや伝えることの能力』はまったく別の能力ですよ。これは特にみんなに気付いて欲しいことです。
大学の授業を受けた時に痛感しましたね。分かりにくいことや、眠くなるようなつまらなさは、珍しくありません。親としても心に留めておくべきことです。一人前の大人だって、子が生まれたら親としては一年生だと言ったりもするように、できることと、教えることや伝えることは、別の分野です。

例えば、池上彰さんのテレビでの活躍がそれを現してはいないでしょうか。わたしはNHKの『週刊こどもニュース』でその存在を知りました。彼は簡単に分かりやすく伝えることに秀でていたからこそ、冠番組をいくつも持つほどにテレビへ出演することになったと思われます。(ジャーナリストとしての評価が低いという意味ではありません。というか、わたしには、他のジャーナリストとしての比較したりするような評価はできませんし。)同じ知識を持っていても、『教えることや伝えることの能力』が高いかどうかは別です。

もっと、細かな分解が必要なこともあります。

まともなことを言う名のある知識人でも、苦手な人物や自分に攻撃してくるような人に対しては途端に適当な憶測で分かったように断定したりもします。けれど、それは別の知識が必要だったりしますからその部分の考え方は間違っていたりします。


人一人でもその評価はさまざまな側面に分解してそれぞれに点数付けが必要だったりしませんか?自分についても他人についても、です。毎度毎度、誰に対してもやっていては無駄に疲れてしまいますがね。

人を一つの物差しで測っているだけの社会や個人ではまだまだ成長する余地はあると思うのです。


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