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古文を読むための生活感覚(2013年6月16日)

 私の職場は、ある有名な住宅街の一角にあります。全体は小さな町なのですが、私の同僚や町に長くは住んでいない人の中には、町の中心に神社が存在していることを知らない人もあります。

 私は車では通勤しないので、帰り道に町をふらふらするのが好きです。今の職場で働き始めてしばらくして、町の中心にあたる丘の上に熊野神社があることを知りました。私が研究している文献は、紀伊の熊野が重要な意味を持っていたため、発見した時は〝何かの縁があるに違いない〟と喜び、帰宅時にお参りするようになりました。ずいぶん長いこと帰宅時のみお参りしていたのですが、最近は朝もお参りするようになりました。
 すると、帰宅時に不規則な時間帯でお参りする時には気づかなかったことに気づくようになりました。

 出勤の時間というのは電車の時間に合わせているため、朝のお参りは必然的に同じ時間になります。すると、やはり出勤する人たち(私のように町に職場があるのではなく、自宅から駅に向かう人がほとんどですが)や散歩やジョギングをする同じ人たちが、毎朝私と同じ時間に、いかなる天候の時でも、欠かさずにお参りをしているのです。中には、お社(やしろ)だけではなく、注連縄(しめなわ)を張ってある御神木(ごしんぼく)にも手を合わせていく人がいます。

 お参りしている人たちは、たぶん毎日同じことを心に思っているように思われます。今日一日の無事、家族の無事といったことではないのかと。あるいは、感謝の思い。私自身も帰宅時には必ず、一日が無事終わったことに対して、朝にお参りするときよりもごく自然に、感謝の念が湧き起こります。

 毎朝、毎朝、同じ時間に同じようにそのことを繰り返す。――私はそこに、大いなるものに生かされていることに対する畏敬の念やなつかしい(古語でいう「そこに近づいていきたいという親しみ」)を覚えます。
 毎朝、変わることのない景色のはずなのに、いや、同じ景色だからこそかもしれません、緑の木々や鳥たちが、天気や季節で少しずつ表情を変えているのに敏感になりました。近頃では、鳥居をくぐるとそこで、私の憧れの中世の日本に迷い込んだような気持ちにもなります。きっと、日本の歴史や文化は、このような日々の繰り返しのなかで築かれてきたと実感する瞬間です。町の熊野神社の創建は明らかにはなっていないそうですが、この地で緑の木々の中で守られている大きな何かは、町の過去も未来も、すべてを見通しているに違いない――と。

 一冊の本を思い出しました。

酒井雄哉(ゆうさい)『一日一生』(朝日新書/2008年10月)



 酒井氏は、比叡山の千日回峰行を二回も達成した、天台宗の大阿闍梨です。
 ※千日回峰行…約七年間かけて比叡山中を一〇〇〇日間、回峰巡拝するなどの天台宗独特の修行法。

 この行を成し遂げた者は、大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)という尊称が与えられる。千日回峰行を成し遂げたのは、記録の残る織田信長の比叡山焼き打ち以降約四百年で、四九人しかいない。戦後だとわずか十二人だ(二〇〇八年十月現在)。
 酒井氏はこの荒行を、一九八〇年、八七年と続けて二度満行した。二千日回峰行者は四百人で三人しかおらず、また最高齢だ。
(『一日一生』中の「千日回峰行」解説ページより)。

 ※なお、雄哉の「哉」の字についてここではPCの都合で別の字を用いています。正しくは『一日一生』をご覧下さい。

 本で酒井氏の写真を見て頂けるとよくわかると思いますが、どこにでもいそうな笑顔のすてきなおじいちゃんです。私の知人の比叡山の僧が語っていたのは「酒井さんは『いやあ、自分は馬鹿でやることないから(回峰行を)二回やったよ』って笑いながら言うんだよ。少しもすごいことしたなんて思っていない」と言って、恐れ入っていました。

 ご本人自身もこの『一日一生』で、「(二度の千日回峰行を終えて)変わったことは何もないんだよ。みんなが思っているような大層なもんじゃない。行が終わっても何も変わらず、ずーっと山の中を歩いているしな。『比叡山での回峰行』というものでもって、大げさに評価されちゃってるんだよ。」と述べています。
 さらに、「戦後、荻窪の駅前でラーメン屋をやってたことがあるんだ。今でも材料があったらチャッチャッチャッって作っちゃうよ。今と同じですよ。朝起きて、仕込んで、材料買いに行って、お昼にお店開けて、夜中に店閉めて、寝て、六時ごろに仕込みして。くるくるくるくる……。もしここに屋台があったらラーメン屋のおやじだな。形は違うけどやってることは同じなんだよ。」と続けています。

 『一日一生』の中で私は、酒井氏がたびたび用いる「くるくる」「ぐるぐる」といった擬態語に強く引きつけられます。

 「人間のすることで、何が偉くて、何が偉くないということはないんじゃないかな。仏さんから見ればみんな平等。自分の与えられた人生を大事に、こつこつと繰り返すことが大事なのじゃないかな。」(以上、酒井氏の言葉はすべて『一日一生』「身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返す」より引用。)

 朝の熊野神社で毎朝すれ違う人たちに気づかされたのは、大きな力の中で生かされて、己自身の役割と生命をまっとうするという、人としてのあり方ではなかったかと思います。そして、我々の祖先はこのような生き方を貫いてきたのだというあたりまえの事実です。こうした生活感覚がない現在の私たちの多くが、古文に描かれる価値観・世界観を、退屈で意味のないものと断じるのは当然の成り行きなのかもしれません。

 しかし、もしこうした祖先の生活感覚を現代にも取り戻すことができたならば、例えば「児のそら寝」であれば、きまりの悪そうな児をあたたかく見守る僧たちの朗らかな笑い声が聞こえてくるものだと、私は信じています。


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