避けるは恥だが役に立つ
ふだん仲良く接していた人間の態度が豹変してしまう瞬間を見たことはあるだろうか。数分前までは一緒に他愛のない話をしていたあの子が、今では殺人鬼のような目をしている。なんなら眼光だけで人を射殺せるんじゃないかという、そんな様子になってしまっている。
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基本的にこの世界には、根っからの善人もしくは根っからの悪人というのは存在しないと思っている。みんな善悪の双方の面を持ち合わせていて、時や状況によってそのどちらかが出てしまうものだと思う。だからその人の悪い面ばかりが見えるような状況にたまたま居合わせてしまったりすると、悪人というレッテルを無意識のうちに貼ることになる。
例えば、職場で部下にめちゃくちゃ嫌味を言ってくる上司がいたとする。自分の持っている全てのボキャブラリーを悪態に費やすような上司がいたとしよう。
おそらくそういう上司がいた場合、たいていの部下は「死ね」くらいのことを思うだろう。
しかしそんな上司だって、家に帰れば素敵なパパである可能性もじゅうぶんにある。息子の誕生日にはしっかりとプレゼントとケーキを買って、残業もせずに家に帰ってくるかもしれない。
となると、やはりこの上司を悪人と言い切ることはできないし、また同様に善人と断定することもできない。
つまり、先述したように人間はそんな単純な生き物ではなく、しっかりと善悪の二面性をもっているのだ。これを念頭に置いて生活できればよいのだが、我々の脳は思っている以上に頑固なようで、ひとたび強烈な善人印象、悪人印象を植え付けられるとそれを覆すのは難しい。
よく犯罪者の知人なんかがインタビューされてて、「こんなことをするような人ではないんです、ふだんはイヌの散歩とかをしてて優しくて気さくな人で…」みたいなコメントが出るじゃないですか。靴しか映ってなくて、声も妙に甲高い感じに編集されているやつね。ああいう場面を想像すればすぐに分かるように、あんなにいい人が、ということが起こってしまうのである。
まあそういう風に、後付け的に悪人であることを知ったケースならまだマシでして、一番ショックを受けるのは豹変する瞬間を目の当たりにしてしまうときである。つまり、善人が悪人に変貌するところを目撃してしまった場合。自分で信じていたその相手の善人像がガラガラと音をたてて崩壊し、ちょっとしたパニックに陥りがちだ。ひどければ人間不信になる。
そんな機会なんて滅多にないだろ、と感じるかもしれないけれど、実際に私はそういう場面に遭遇したことがある。今回はそんな話。
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私は球技という文化と相性が悪かった。だから部活も陸上部に入ったのだが、ボールという物体の扱いに長けていなかった。自分の体を制御するのに精一杯で、それに加えてボールも操らなければならないなど、不可能の領域であった。
もうひとつ言うのであれば、球技は集団種目がほとんどなので、私みたいなボール扱いが不得手な人間は足を引っ張るだけの桎梏でしかなく、それが本当に苦痛だった。みんなはたぶんそういう人の心中を察しているのだろう、「下手くそ」とか「ぼんくら」とか悪口を言ってくるでもなく、ヘマをしても優しく接してくれた。
でも、その優しさが逆に苦しかった。たぶん足手まといだと思っているんだろうな、と他人の心中を想像することが一番ダメージなのだ。厳密にいえば、そういう想像をしている自分への嫌悪感が一番大きかったのかもしれない。
だから本当に球技は嫌いだった。居心地の悪さと、精神的なダメージの二重苦に苛まされる地獄みたいな時間だった。
そんな球技の中で私が最も憂鬱で、やりたくないと思うものがある。あれをやるくらいなら仮病を使うことも厭わない、そんなレベルだ。
何かというと、「ドッジボール」である。
ああ、文字に起こすことすら空恐ろしい。悪寒がする。
嫌な理由は大きく2つあって、まず1つ目はついさっき書いたような話。足手まといになるからだ。
ドッジボールなんてのは特に走力を必要とするわけでもなく、玉を投げる能力に大きく依拠する球技である。少なくとも私はそう思っている。
だからボールを満足に使いこなせない私は、内野にいてもただ玉をかわすだけ、外野にいたら別の外野にパスを回すだけ、というまるでダメなプレイをしていた。自分がチームに貢献できていないという、一種の自己嫌悪感や申し訳なさの中を生きることになっていたわけだ。
ただし、嫌いな理由がこれだけであれば、さほどドッジボールを毛嫌いせずに済んだだろう。
以下をよく噛みしめて読んでほしい。
ドッジボールが他の球技に比べて抜きん出て良くない点は、まさに冒頭で述べた「人が豹変する」点なのである。それも悪い方向に。
そしてこれは、他の球技では絶対に起こりえない現象なのだ。
ただしかしそうは言っても、何の変哲もない生活を送っていれば、ドッジボールと関わり合いになることはそうそうない。もし仮に「ドッジボールやろうよ」などと誘われても、毅然とした態度で断ればいい。だからドッジボールが強制される場面というのはあまり多くない。
ところがどっこい、我が母校には「球技大会」なる試練の行事が存在し、ドッジボールを含む球技を丸一日じゅうずっとやらないといけない日があった。ボールと敵対している生徒を毎年絶望のどん底に叩き落としていた極悪非道な行事である。悪魔みたいな奴が考えたに違いない。あの高校において、数少ないマイナスポイントだった。
球技大会はさほど規模としては大きくないのだが、やはり球技系の部活に入っている人たちにとっては最大の見せ場だ。だからそういう人たちを中心に謎の盛り上がりを見せるというのが常であった。しかもその手の連中に限って、やたらと強いパッションを持ち合わせていることが往々にしてあり、学年が全体的に妙な高揚感に包まれていたのを覚えている。
当日は球技大会実行委員、略して球実の面々が当日の段取りや進行を考えていくことになっていて、1学年単体の行事でありながらも体育館や校庭を貸し切ったりと中々の気合いの入りようだった。
そして何度も言うけれど、球技大会の一番のダメな点は種目に「ドッジボール」が盛り込まれていたことに他ならない。先で散々述べた悪魔の種目だ。非人道的。
もう私なんかは当日が憂鬱で憂鬱で仕方がなくて、隕石でも落っこちてこないかなとかって思いながら登校していた。
そして来たるドッジボールの時間。視界の端には意気揚々と実施場所のテニスコートに乗り込んでいくバスケ部の大津くん。どうかしてるよ。
さて、時間になってしまいビーッというホイッスルの音とともに、暗鬱たる気持ちの中でボールのぶつけ合いがスタートする。勢いよく目の前すれすれを飛んでいくバレーボールの玉。
いい加減にしろ。ここは軍隊の訓練場じゃないんだぞ。内心で周りの連中に毒づきながら、死ぬ気で玉をよけていく。
そしてああ、自陣のすぐ背後の外野にいるのは数分前までは仲良くお喋りしていた隣のクラスの村山くんだ。彼は相手チームになった途端、目の色を変えてボールを投げつけてきた。今までのひょうきんな性格が嘘のようだ。怖い。怖すぎる。
さて、ドッジボールで最も犯してはならないミスは、敵と目を合わせてしまうことである。ボールを手にしたデーモンと目が合ったら最後、地獄の底まで追い回される羽目になる。だから基本的には伏し目がちに視線を配らせながら行動しないといけない。
と思っていた矢先、村山くんと目が合ってしまった。
あ、これはもう私の内野生活は長くないだろうな、と悟る。
そして運の悪いことに、村山くんにボールが回ってきてしまう。彼の目が標的を探す目になる。すぐさま彼の怪しいオーラを宿した目が私をロックオン。思いっきり私にボールを投げつけてきた。これはまずい。
ヒトは極限状態に置かれると、パニックで安定した判断ができなくなってしまう。今まさにそうした状況で、平時なら容易に避けられるであろう玉に対して、自分がどうすればいいのか全く分からなくなっていた。脳は「いつも仲良くやっていた村山くんが豹変し、私めがけて怨念のこもったボールを投げつけてきた」という事実に混乱し、適切な判断をできなくなっていたのだ。
ボスッ、ビーッ!!
玉が体に当たった情けない音とともに、ホイッスルが鳴り響く。
終わった。今回もまた当たった。辞世の句を詠む間もない感じで当たってしまった。
そうしてすごすごと外野に移動するのだが、外野に出たところで私の出来ることは限られている。ろくすっぽボールも投げられない。遠くに飛んで行ってしまった玉を全速力で拾いに行くくらいしか仕事はないのだ。しかし今回はあまり広くないテニスコートでの開催なので、そうそう遠くに玉が飛んでいくこともなく、なんで自分は生きているんだろうという哲学じみたことを内省しながらタイマーをひたすら眺めるという有様だった。
その後はでくのぼう状態で残り時間を浪費し、ホイッスルが鳴って試合は終わった。
もはや勝ち負けなど心底どうでもいい。
勝ったってあまり嬉しくない。
なぜなら、人が変わってしまった村山くんを目撃してしまったからだ。まあ村山くんに限った話ではなくて、喜び勇んでボールをぶつけまくっていた他の人々にも言えるのだけれど。
本当に人が変わる瞬間というのは身震いをしてしまうくらい恐怖だ。脳が正常な処理をできなくなってしまう。
とまあこんなようなエピソードもあったりして、私は本当にドッジボールが嫌いです。
ですが、
「スポーツをやっているときに人が豹変してしまうのは当たり前なのではないか。それこそ真面目にやっている最たる証拠ではないか。」
こんな反論が来るかもしれない。
確かにそれはごもっともな話だ。誰だって全力で球技などのスポーツをするとき、別人のようになることがあるだろう。
しかし、それは自分のチームを勝利に導こうという一心での変化だと思うのだ。サッカーでいうなれば相手のチームから巧みにボールを奪取し、味方の勝利への足がかりにする。他にも例えばラグビーだって、自分の持っているボールを渡したくないという強い思いがあるだろう。
こんな風に、基本的には自分のチームの勝利する機会を得るために奮闘しているはずだ。
しかしドッジボールはそうではない。
あれはもはやチームがどうこうよりも、単に人にボールをぶつけたいという邪な心一つで物事が進んでいるようにしか思えない。だからもちろん、プロの競技としてのドッジボールを否定するつもりは毛頭無い。
ただ、高校生レベルのドッジボールは本当に憂さ晴らしに見えてしまうのだ。私の心が曇っているというように思われるのならそれで全然いいですけど、私はドッジボールのような場を憂さ晴らしに使ってしまう高校生の、その環境や背景に警鐘を鳴らしたい。
そんなに今の若者はフラストレーションが溜まっているのか。合法的にとはいえ、友達に玉をぶつけることがこうも簡単に許されるのか。
そもそもそういう連中はドッジボールの言葉の意味を考えたことがあるのか。「ドッジ」が何を意味するのか、ということだ。
Dodge、それは日本語に訳すと「避ける」である。
ドッジボールは直訳すると「玉を避ける」なのだ。断じて玉を人にぶつける競技ではないと思う。狙い澄ましてぶつけるなどもってのほかだ。
以上の理論より、私の思う理想のドッジボールを紹介しよう。
玉を複数個用意して、みんなで思いっきり投げ合う。
これに尽きる。まあ投げる過程で誰かにロックオンすることはあるかもしれないけれど、それは「ぶつけてやろう」ではなく、「私の玉を避けられるかな?」という思惑のもとで行われるべきだ。
みたいなことを、私は球技大会の前後に実行委員の人たちに力説したんですよ。ドッジボールは避ける競技なんだと。決してぶつける競技ではないんだと。
そしたらあいつら、まるで聞く耳を持たないのな。そんなに友だちにボールをぶつけてやりたいのか。
あと、自分の投げたボールをかわされたりキャッチされたりすると露骨に嫌な顔をしたり残念そうにしたりするのをやめてくれ。そこは賞賛するところだろう。よく私のボールを受け止めたな、避けられたな、と。それこそがスポーツマンシップに則ったありかたなんじゃないの。
とまあ、ドッジボールはやたらとみんなが好戦的になるので好きになれませんでした、というお話でした。一応まとめておくと、私がドッジボールについて許せないと思う根本は、球技が苦手うんぬんというよりも、人にボールをぶつけることを正当化している連中にある。別の一面が友人たちに眠っているということを強制的に知覚させられるという、それ自体が並々ならぬ恐怖なのだ。
人にボールを当てることが正当化される唯一の機会。そう考えている人々がいる以上、きっと私はドッジボールを受け入れられない。
ドッジボールを曲解してしまうような人間にだけはなりたくないと切に思う。
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高校生のあの日、私にボールを思いっきり当ててきた村山くんとは球技大会終了後、いつも通りの友人関係に戻っていた。
ドッジボールの最中に、まあ村山くんに限った話ではないのだろうけど、必ず相手に玉をぶつけてやろうと思っている人々。ドッジボールという競技を変に解釈し、あわよくば自分のフラストレーションを解消しようなどと考えている人々を見ていると、本当に人間って怖いと思う。
ドッジボールを通じて得たもの、それは人間への恐怖。玉をぶつけていいと曲解する発想もそうだし、そのねじ曲がった解釈により表れる別の人間性。
そういった恐怖があるから、ドッジボールに極度の嫌悪感を感じて忌避してしまう。果たしてこの嫌悪感が払拭される日は来るのだろうか。
たまにふと想像してしまうことがある。
もしも私が球技に長けていたら、
もしも私がボールを適正に操ることのできる人間だとしたら――
私も、誰か友人に思いっきり玉をぶつけていたのだろうか?
そんな仮定法じみたことを考えながら、今回は終わりにしようと思う。
お読みいただきありがとうございました。
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