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自己表現としての写真表現の模索

高校時代にカメラを購入して(高校時代はほとんど撮影していませんでしたが)かれこれ7年くらい写真をしてきたわけですが、コロナの期間で写真に出かけることが減って、それまでほとんど盲目的に信仰してきた写真について考える機会となりました。

「何のために、何に駆られて写真を撮りに行っていたのか」

「写真の意義は」

そんなことをぐるぐる考えてみて、結論としては写真で自分は表現がしたかったのだという結論にいたりました。ただそこでさらに

「写真って正直誰でも撮れるのに表現になるのか」

と疑問に思いました

今回のnoteはそんなさとぅの思考と個人的な一結論です。

写真に虚無感を感じてきた人に効くかもしれません。

※効果効能には個人差があります
※写真がただただ楽しい時期には読まないでください

写真が実現したこと

カメラオブスクラ[1]

まず写真とは何なのかという点に触れる必要があります。

写真が実現したことは視覚の保存です。写真が発明されるまで、視覚を保存する方法は絵画しかありませんでした。正確な投影をとるために生まれたのがカメラオブスクラでこれがカメラの前身となります。カメラオブスクラは現在のカメラとはかけ離れていて、画家が中に入って下絵をとるために使われていました。この時点では瞬間的な視覚の保存とはいかなかったわけですが、技術が発達しライカが浸透する頃にはファインダーを通して見た撮影者の視点をフィルムに残すことが一般化していました。

撮影者の視覚が保存されたものとしての写真は、撮影者でない第3の鑑賞者が見ることで撮影者の視点を共有するような追体験・事実の共有を可能にしました。

現在写真でしか見たことがない海外の景色をどれほどさも見たことがあるかのように感じているのかを考えるとこの写真の意義は十分に理解できると思います。

私はフェロー諸島には行ったことがありませんがその地の写真は既に何度も見たことがあって、実際経験的に見た事があるようにさえ感じています。
写真を趣味にしている皆さんなら、撮影でSNSで見かけた場所に出向いて、初めてそれを見たというよりもいつも写真で見ていた光景を生で目にしたというような感覚になったことがあるのではないでしょうか?

このような説得力を写真が持った理由は、やはり第三の目としてただ単純に現実世界を映しとるという性質・真実性でしょう。

技術の自動化

カメラの技術が今日のレベルまで発達するまでは、カメラをうまく扱える技術自体に価値があり表現として程度認められていたのかもしれません。しかし、デジタル化が進んだ今日においてはボタンを押せばきれいに映るようになりました。基礎的な知識と機材されあれば初心者でもプロと同じ(ような)データが撮れるはずです。このような状況でカメラ操作技術は表現ではなくなりました。

写真=現実世界の投影

写真は光学的に像を得ているわけですから、撮影されたものは現実世界の投影でしかなく、それ自体には撮影者の創造性は存在していません。現実世界は”対象”であって撮影者が積極的に創りあげたものではないから。

建築は総合芸術(著作権はない)とされていますが、その建築の写真の作者は建築家にあるのか写真家になるのか

美しい風景の写真の創造者は自然か写真家か

風景写真では、自然風景を作り上げたのは人間ではありませんから撮影者が作者だと言っても疑問に思う人は少ないと思うのですが、建築写真となるとこの作者のジレンマが明確に現れます。建築にはファサード(正面となる顔の様な部分)が存在しています。それは建築家である人が意図的に創り上げたものであって、これをそのまま撮った撮影者はその写真の作者とよんでいいのでしょうか?

ファサードを意図的に避けて、別の部分で魅力的に感じる部分にレンズを向けて撮る。そうすると撮影者の表現に近づくのかもしれません。しかし、対象自体を創作したした人がいる以上、結果はさほど変わりません。
撮影者に主導権がある、表現たるものは何でしょうか。

決定的瞬間

好条件・滅多にないような決定的瞬間を撮影すること。
決定的瞬間はアンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉です(誤訳説がありますが)。この系統の写真はすごく分かりやすく力があります。ですがそれを見て現代の写真愛好家が思うのは「こんな写真私も撮ってみたいな」だと思います。
「撮ってみたいな」が内包しているのはその時自分もその場にいたかったという願望です。好条件に居合わせて撮影した人はラッキーか、はたまた狙ったのか。狙ったとしてもそれは推測の技術であって表現ではないなと。こうした俗に言う決定的瞬間が持っているのはその時その場にいてシャッターを切ったという事実ではないでしょうか。状況(事実)に限定するとそうですがブレッソンはこのように述べています

「写真はわたしにとってほんの一瞬間のうちに次の二つのこと同時に認識す
ることなのです:一事実の意味と、その事実を表現する視覚的に知覚されるフォルムの厳密な構成」[2]

フォルムの厳密な構成というのは主に構図(視点)でしょう。この点においては、主導権は紛れもなく撮影者にあります。

視点

写真において、視点という要素は撮影者が積極的に選択していると言えます。どこからどの画角で撮影するのかというのは撮影者に委ねられていて無限の選択肢があります。
現実世界という別の何かによってつくられた対象を撮影者がどのように認識してどこに感動して撮影をしていくのか、どこに着目するのかという点に作者の意図が反映されていくのかもしれません。撮影者の視点というフィルターを通して撮影された画像を、受け手である鑑賞者が見て、美しい悲しいなど撮影者の意図した通りの感情が共有されればそれは表現と言える気がします。ただ、これらの視点も現代においては消費されていくものとなっていることに留意しなければなりません。別所さんの言葉をお借りするなれば表現のコモディティ化です。

ある特定のスポットの写真というのは瞬く間に飽和し、一枚の価値をほとんどないものにしてしまいます。価値がないと分かっていながらもなぜ人が同じ(ような)イメージを撮ろうとするのかというと、そこにはイメージを潜在的に自分の物にしたいという欲求があると思うのですがそれについてはまた別の機会に。

現像

撮影したデータ自体には創造性がないということは昔から思っていて、結果私が求めたのは現像でした。撮影したデータが同じであっても現像する人が違えば少しは違った結果になるからそこには個性や表現が存在しているのではと。そこで、所謂海外のレタッチとやらを習得するためにたくさんチュートリアルを見て勉強しました。まあ、みんな同じことをしているのですが、そこにあったのは表現というより技術でした。

レタッチは理想像を表現するための技術です。

レタッチとは別の次元に理想像が存在していてそこに撮影者の意図・個性が存在しています。この理想像にいかにして”データ”を近づけるのかというのが現像のプロセスです。理想像に表現が含まれているということは紛れもない事実だと思いますが、いくつか問題があります。一つは技術が共有されておらず差別化の要素となっていることです。理想像が優れている人がいても技術がシークレットにされているためにそれが実現されないことは非常に残念だなと。技術が共有されて誰もが入手できる状態になっている状態、身に着けるか・使うかは選択できる状態でなければ真に表現という尺度のみで作品を評価することは難しいのではと。実際、最近は分かりやすく差が見えるレタッチばかりが偏重されているように感じるのです。(この点については個人的に取り組もうと思うのでまたnoteで)もう一の問題は理想像が似通っていること。一般的に良いとされる写真のインプットが増えることでその傾向に無意識のうちによって行ってしまいます。これが多くの人で起こることでトレンドが生まれ、全体として見た時に結局のところ理想像の独自性が消失してしまう可能性があります。これについては人間の真理というか解決などないのかもしれません。

表現になるために

現実世界を記録する道具でしかない写真でどうやって自己表現をしていくのかーーこの問いに対する個人的な回答が以下の3つです

『視点の羅列』

ひとつは視点の羅列だと考えています
先で述べたように視点は撮影者が積極的に選択しているものであってそこには少なからずアイデンティティがあります。ですがそれは1枚ではあまりにも弱い。その時その場にいてシャッターを切ったという事実が写真の意義として大きすぎるがために本来最も重要であるべき表現が埋もれてしまうように感じます。決定的瞬間の様な場面自体が強すぎるものだとなおさらでしょう。
写真が表現として確立されるには思想を表出させる必要があると考えます。単写真ではなく、撮影者というフィルターを通して捉えられた視点を複数重ね合わせていくことで、写真の事実としての側面が平均化されていき、結果的に作者の意図・思想が全体像として現前し、一表現として完成されるような気がするのです。

この写真は種子島で撮影したものですが三脚も使わずトワイライトのもの悲しさを感じながら思うままに撮影しました。

『現像』

もう一つは現像です。
気を付けなければならないのは現像が表現ではなく、理想像が表現であるということ。高い技術=表現には必ずしもなり得ず、習得している技術をいかに駆使して自己の中にのみ存在している理想像を一つのイメージの中に実現させるのかという点が重要です。

阿蘇のパノラマ写真。元データはその時その場でシャッターを切った事実であってボタンを押すのはだれであっても変わらない。編集を加えて自身の中にある理想的な姿に改変することで表現になるのかなと。

『写真からの解放』

最後に写真をイメージとしてとらえ直す方法です。
現実世界からの引用という写真の枠を超えて、自己の中で生成したイメージを写真という手段を利用しながら完成させていく。写真は2次創作が前提ですがこの手法であれば0から自分でイメージを作り上げていくことができ、正真正銘の自己表現ができると考えます。このような表現は写真よりずっと消費されにくい存在です。ただ、生成されたPhotoshopイメージが絵なのか写真なのかという疑問が残ります。

阿蘇の月夜に撮影したハロと雲海、紙飛行機の写真、子供の絵を組み合わせてイメージをつくってみました。

まとめ

今回紹介した3つはあくまで例であってそれ以外にも手法があるのかもしれません。ただこれらすべてに共通していることは他の何物でもない自分の表現をつくるということです。自分が撮影する事への必然性の消失にどう抗うのか。

答えのない問いだと思いますが何か参考になるものがあると嬉しいです。
この記事を読んだ見た感想とか、意見も聞かせていただけると嬉しいです!

ではまた(^^)/

参考文献

[1]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%A9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Camera_obscura2.jpg

[2]犬伏雅一 決定的瞬間というポエティクス https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/601

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