2024年9月29日 雑記「『VTuber学』を読んだ感想」


 6年半という比較的長い間活動しているVTuber当事者として、『VTuber学』は読んでおかなければならないと思っていた。かなりの分量があるため購入から1ヶ月が経ってしまったが、なんとか読み切ることができたので、感想を残しておく。

 「〇〇学」を名乗るだけあり、全体的に丁寧な手つきで「VTuber」について論じている。今後も『VTuber学2』『VTuber学3』が出版されるのが待ち遠しい。
 第三者目線での記述だけでなく、フィールドワークとしてのVTuber活動を通しての主観的体験、バ美肉当事者へのアンケートとインタビューによる調査など、当事者のナラティブが重要となる「VTuber」研究を定義づける書籍として必要な役割を果たしてくれているのは、研究対象である「VTuber」のひとりとしてありがたい。

 VTuber理解のしかたが自分とはかなり違うと感じた部分もあった。ある程度仕方ないところではあるが、VTuberの歴史を語る際に「キズナアイ」のような「バーチャルな動画投稿者」から「にじさんじ」「ホロライブ」のような「Vライバー」(キズナアイのような「VTuber」とにじさんじ系の「Vライバー」は異なるものであり、呼び分けるべきであるという意見が2018年ごろは決して少なくなかった)が主流となるまでの間があまり書かれていない。リアルタイムで見ていた者からすると、「げんげん」「鳩羽つぐ」の衝撃とその後のVTuber業界に与えた影響はあまりにも大きく、彼らの登場が強調されていない「VTuberの歴史」には違和感がある。
 いくつかの章では、「VTuber」と「メタバース」や「なりたい自分、オルタナティブな自分」が強く関連づけて論じられている。「VTuber」という概念に「メタバース」や「なりたい自分、オルタナティブな自分」が必ず付随するわけではないことは主張しておきたい。それらは「アバター」「仮想空間」という共通項を通した親和性を持ちこそはすれど、その結びつきはそこまで本質的ではない。
 VTuber(バーチャルYouTuber)自体はあくまでも「映像コンテンツの供給者」であり、そこに「特殊なしかたでキャラクターの存在を立ち現れさせる」こと(これが「VTuber学」を独立した学問たらしめている!)を除けば端的に「映像クリエイター」と呼んでしまっても差し支えないのではないだろうか(制作チームの体制によってはそれが必ずしも「中の人」とは一致しないが)。「特殊なしかたでキャラクターの存在を立ち現れさせる」過程でコンテンツを構成する要素に「なりたい自分、オルタナティブな自分」が入ってくる場合もあるが、VTuberのアバターや人格はあくまでも映像作品のパーツである。「なりたい」よりも、「(他者から見て)そうすると面白い」が先に来るのではないか。
 とはいえ、「生身とは異なるアバターを持つ」以上は傾向として理想の姿を作りたがるのもまた事実だろう。「なりたい自分、オルタナティブな自分」を志向するタイプのVTuberに焦点を絞った分析も、VTuberを理解するために事実上必要なことを強くは否定できない。

 内容とは直接の関係はないが、第5章「VTuber学入門」で僕の京大時代の友人である石井くんが著者のひとりである『アイドル・スタディーズ』が紹介されているのが嬉しかった。
 第5章ではアバターが「美男美女」になりがちでありルッキズムを助長する側面があることや過剰にセクシュアルになってしまうこと、広告表現がジェンダーロールの強化に繋がることへの懸念といった「VTuberの関係者やファンが触れづらい」論点にも少し触れており、「VTuber」をきちんと研究対象としてフラットに扱おうという誠実さを感じた。
 ルッキズムと多くの部分で重なりつつもおそらく微妙に異なる問題として、アバターを纏う男性にとっての「なりたい自分、オルタナティブな自分」が「美少女」とされがちなことには、僕がVTuberとして活動を始めた2018年3月時点で歪さを感じていた。第6章「メタVTuberコンテンツの表象文化研究」もこの問題に触れている。僕が運営しているチャンネルがいずれも「女性アバターを(コントなどでどうしても必要な場合以外は)使わない」という方針を貫いているのは、作風に依るだけでなくそういう風潮に抗するねらいもある。「殺人崎抉斗」アバターの乳房が膨らんでいるのはVTuber「ミソシタ」のオマージュであり、女性身体であることを意味しない。

 第9章「「VTuber」とはいかなる存在者か」から始まる第III部 理論編はいずれの章も議論があざやかで、すでにかなり熟成しているように見える。しかし、それ以前の部と比較すると「当事者の視点」からわかるようなことについてはまだ伸びしろがあるとも感じる。
 もちろん、「VTuber」という概念自体の分析にあたって「当事者の視点」はノイズになることもあり、より一般化可能な理論を組み立てるためにはそれを無視してしまうことも必要だ。そのうえで、哲学者の方々も実際にVTuberとして一定期間活動してみて、改めて過去の論と対峙するという試みをしてみても面白いのではないか、と思った。
 障害学(Disability Studies)では、主要な研究者に障害当事者がいたり、「当事者研究」(当事者自身が自分のことを研究して発表する営み)から重要な知見を得たりしている。(実は、僕は障害学会にも所属しており、障害学もバックグラウンドのひとつだ。)VTuber学においても、当事者による自分自身の研究から得られる知見は多いのではないだろうか。岡本氏の「ゾンビ先生」での経験を反映した研究は当事者研究と呼べる部分も大きい。

 生々しく触れづらい話題ではあるが、当事者視点での議論をひとつ出してみよう。VTuberが認識されるときには「他者がVTuberを認識するとき」「VTuberが自身(の演じるVTuber)を認識するとき」のふたつがある。「どういう存在者か」とは、どちらによって規定されるのだろうか? もちろん、一方のみではないはずだし、どう認識されるかとは独立して存在のしかたは規定されるという議論も可能であるが、少なくとも「誰に認識されるか」の比重が視点によって大きく異なることは確かである。視聴者にとっては「他者がVTuberを認識するとき」がすべてであるし、VTuber本人にとってはそうでない瞬間が必然的に多くなる。
 「他者がVTuberを認識するとき」には「VTuberが他のVTuberに認識されるとき」も含まれ、特に「オフ会」で中の人同士が直接会うときがややこしい。ファンからはまったく見えない部分ではあるが、当事者にとっては「「尾無ティブ」とはいかなる存在者か」(第III部に合わせ、「秋山花子」という架空の人物が「尾無ティブ」というVTuberであるという例を用いた)を意識させられる機会として無視できない割合を占めるのではないだろうか。その瞬間も、確かに我々はVTuberなのだ。
 直接会うようなVTuberには「VTuberを始める以前から知り合いだった」「VTuberとして知り合った」という2パターンが存在する。特に個人VTuberで特殊なスキルを持つ者はVTuberを始めるより前からある程度の知名度を持っていることが多いため、元々知り合いだったりして、意外と前者をよく見る。その場合、「VTuber = 呼び方のひとつ」として扱うことになる。この認識のしかたは「VTuber = 配信者(中の人)」という「配信者説」におけるそれと近い。
 「VTuberとして知り合った」場合、その人は「化け猫VTuberの尾無ティブ」としか表現しようのない者となる。「秋山花子」という人物に直接会い、その人を直接「尾無ティブ」と呼ぶことで「秋山花子」と会ったこともない視聴者たちよりもむしろ「中の人(秋山花子)」の存在を意識しなくなり、肉体を持つ「秋山花子」その人に(本当に)「化け猫」であることを前提としたいじりをする、等のVTuberとの同一視を行う。これは複雑な状況だ。友達のVTuberたちは「秋山花子」の肉体を指して「尾無ティブ」と呼ぶが、中の人である「秋山花子」と同時に「化け猫VTuberの尾無ティブ」を実在性を帯びたものとして指すという二重の指示をしている。これは「VTuber = 配信者(中の人)」という状況でありつつも、「秋山花子」では説明しきれない「化け猫VTuberの尾無ティブ」の存在がもはやアバターとは離れたところで新たに立ち現れており、「VTuberの存在を配信者に「還元」する」立場とは微妙に異なるように思える。
 山野氏が主張する「制度的存在者説」を採用し、この状態を「この配信者はVTuber尾無ティブとしてのアイデンティティをもって配信活動を行なっているという文脈において尾無ティブとみなされる」と表現することもできそうだ。ただし、山野氏は「画面上の尾無ティブの姿」ではなく「秋山花子の肉体」を指して直接「尾無ティブ」と認識するようなこの状況を意図してはいないだろう。VTuberが自身や目の前の他のVTuberを見ながら「「VTuber」とはいかなる存在者か」と問うとき、それは哲学者が第三者視点から想定するものとは少し違った問いに変質していることもある。僕はこれを(第9章で言及される「フィギュア問題」に寄せて)「オフ会問題」と呼んでいる。
 第9章では「制度的存在者説」は「配信者の実際の体験(をVTuberとして語ること)」を説明することが難しいという点が課題として挙げられる。「オフ会問題」もアバターを介さない体験についての問題という点では少し似ていると言えなくもない。山野氏はこれに対しいくつか説明を用意しているとのことだが、VTuber当事者となってみることでも新たな説明の道がひらけてくるのではないか? と、ここでひとつ無茶振りをしてみたい。

 その他、第10章「実在する配信者としてのVTuber」で分析哲学とはどういうものかをわかりやすく解説してくれたり、全体的に読みやすく組版されていたりと、僕がVTuberであるというバイアスを抜きにしても大勢におすすめしたい書籍だった。


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