贅沢とは、選択肢を持つことである

新卒で福井県の会社に就職して、いろいろあって4年で辞めて、新宿に住んで新宿で働く冴えないサラリーマンを1年ほどやった。

それからすぐに東京を出て、今度は山形で働くことになって、あっという間にもう半年以上が経った。

東京は確かに刺激的だったけれど、東京で働くのは自分にとっては結構つらくて、それに比べて、山形で働く自分は、すごく心が豊かでいられていると思う。もちろんそれは東京が悪いとかそういうことじゃなくて、単純に自分にはあの生活は合わなかったという、シンプルにそれだけのこと。

でも当然、東京で働いていたころよりも、もらえるお金はぐっと少なくなってしまったし、モノの豊かさもずいぶん減ってしまった。東京にいたころは贅沢だった。戻りたいとは思わないけれど、あれはあれでいい暮らしだったし楽しいこともあった。どこにいても隣の芝は青い。

「贅沢」ってそもそも何だ?と考えるようになった。東京の暮らしは贅沢だった。でも心が満ち足りてはいなかった。今の暮らしはお世辞にも贅沢とは言えない。それでも心は満ち足りている。「贅沢」とは「満ち足りている」ことではないのか。そんなことをたまに考えるようになった。

「贅沢」とは、選択肢を持つことだと思う。

食べ放題で考えてみたい。私は、たくさん食べることこそ贅沢なことだと思っていた。用意されている料理を全種類平らげないと気がすまなかった。高そうなステーキを何度もおかわりすることが、贅の極みだと思っていた。たくさん食べて、料金の元を取ってこそ、得だと信じていた。食べ放題の帰り道は、食べ過ぎで、いつも、ちょっと気持ち悪くなった。

ある日、食べ放題でたくさん食べるのをやめた。

たくさん食べることこそ贅沢だと信じ込んでいた自分にとっては革命的な出来事だった。大げさかもしれないが、でも、日常の小さなことでも、思い込みに対してコペルニクス的転回を起こすことは結構大変で、地動説が正しいと証明されるレベルの衝撃と言っていいかもしれない。

するとどうだろう、私は、腹八分目の状態がいかに幸福な状態であるかということに気づいた。妄信的にたくさん食べることだけを考えていた時には気づかなかった、美味しいものを、自分にちょうどいいだけ食べられる幸せを衝撃的に感じた。地球は回っていたのだ。

東京に住むことは贅沢である。選択肢がたくさんある。雑誌に特集されるカフェはほとんどが東京で、行きたいと思えばすぐに行ける。買いたいものがあれば、買い物できる場所はわんさかある。娯楽施設も山ほどあって困らない。ジャンルも様々。どこかに行こうと思っても、鉄道も航空便も、運航している本数が段違いだ。

でも、特集のお店すべてに行って、商業施設をはしごして、何でもかんでも足を運んで遊んで、せっかくだから、もったいないからと、端から端まで経験しつくすことは、必ずしも贅沢とは限らない。

使わなくても、行かなくても、その気になれば実現可能な選択肢として、そこに存在しているという状況そのものが、「贅沢」なのではないだろうか。

自分はその選択肢をとることができる。とらないこともできる。自分の意思で、選べる。その状況自体が、「贅沢」ということなのだろうと思う。

最後に一つだけ。じゃあ地方に住むことは贅沢ではないのか?と聞かれればそんなことはもちろんない。東京で暮らしている時とは全く違う選択肢を持つことができるし、場所に縛られない選択肢であれば、地方にいても持つことができる。最終的には、その選択肢を贅沢だと自分が思えるかどうか?というところに尽きるのではないか。

もし、今の環境が贅沢だと思えないのならば、環境を変えればいい。環境を変えられないのなら、自分の気持ちの持ちようを変えればいい。

せっかくの人生、贅沢だと思えるように、生きてみたい。

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