私という生き物
日々、自分が考えていることや感じている事を人に伝えることはあまり得意ではないし、私にとってはさほど重要じゃない。
それでも自分の言葉が他人と通じ合う時、やはりどこか繋がれたという安堵感に救われることがある。
(これは取るに足らない話であり、伝える事よりもさとうひよりという人間を記録するような内容になるので、日記のように読んで頂くと良いと思います。しかしこの言葉によってどこかの誰かの心が僅かでもゆれ動くことに期待を込めて綴ってみようと思います。)
先日のこと。
岩手県遠野にある古民家「アトリエ遊」を活用して9月24日~10月22日の約一か月間、グループ展「野生」が開催された。
主催者・出展者・装飾担当の全員が96年生まれで、みんな岩手県で活動するクリエイターたち。内容は、絵画・イラスト・写真・陶芸。
その中で自分は絵画作家として参加し、7点の作品を出展した。
水彩・アクリル・土絵の具。思えばひとつの画法に留まらず、頭に浮かんだイメージを生み出すためにあらゆる画材を使って描いていたことに気が付いた。
土の絵を見た人たちは、土を使って描くという画法に対して「アリなんだ」と驚く人もいたし、質感や立体感がおもしろいという人もいた。
これらの絵に対しての反応はある意味予想していた通りだった。
きっとそれ以上でも以下でもない。祈りや願いが込められているわけでもなければ、恨みや妬みが含まれているわけでもなく、ただただ自分から見た「そこにある」を描いたものであった。
そもそもなぜ、土を使いたいと思ったのか。
きっかけはとても安直な動機だった。
土の匂いや ざらざらとした触感を感じたい。
手の動きに絵の具が乗るような感覚で描いてみたい。
そんな風に思ったのがきっかけだったと思う。
おそらく、思考することよりも直観で感じたものを描いてみたかったのだろう。(なぜそのように思ったのかはわからない)
そして自分の本質は幼少期にあると考え、目で見て感じたものを、直接手を使って描くことで、潜在的に眠っていた感覚を呼び覚まそうとする行為だったのかもしれない。
思い返せばその頃の自分は、意味もなく川を見たり星を眺めたり、山へ潜ったり草木を愛でたりして、遠い存在のようなものに思いを馳せる時間を過ごしていたような気がする。
土に対しての意識は一時的なものであったのか、それからはまたアクリルや水彩に戻ったり、そこへ少しだけ土を混ぜてみたりと実験的に描くことを楽しんでいた。
その時期に描いていたある作品の中で記号の〇(マル)を意味もなく描いてみたくなった。
一筆で描くまる。
二重まる。
結晶のような記号が散りばめられたまる。
・・・
絶え間なく産み落とされるようにまるを描いていて今自分の目の前で流れている映像をどこかで見たことがあるような感覚が身体に押し寄せた。
その奇妙な感覚にゾッとしたあと、僅かに懐かしさのようなものを感じた。
きっとこれはいつかの記憶に違いないと気づき、いま小さく寄り添うような懐かしさを感じる 儚い記憶の正体を確かめるように、とにかくまるを産みだし続けた。
一心不乱に描き続けたまる。
その絵を前にして脳裏によみがえったのは
幼少期の頃の自分だった。
絵を描いてきた人生の中で一番古い記憶が、小学3年生頃の少女漫画の模写だった。
絵を描き始めたきっかけは、姉が描いていた漫画の模写のクオリティに憧れた影響だったと思う。
それ以前の絵の記憶というものは自分の中で存在せず、形としても残ってもいなかった。
それから20数年という時の流れを経て、いま蘇ってきたものはそれは別の誰かのようであり、古く儚い記憶だが、未熟であり瑞々しく、煌めいた記憶であった。
驚いたのは、その記憶はこれまで思い出すことがなかったほど、さらに幼い頃の記憶だったということ。そう、たとえば実家の押し入れから出てきたビデオテープに残されていた幼少期の映像を見ているような。
ともすれば、自分は姉の絵に影響を受ける前から少女漫画的な絵とはべつの絵を描いていたということになる。
まるを描くことによって、これまで絵を描くきっかけとなっていた古い記憶以上の、さらに掘り進めたところにあった記憶を蘇らせることになった。
どうしてこんな事が自分の身に起こったのか。
自分にとり、ある意味恐ろしい出来事だったと今になって思う。
なんの脈絡もなく〇(まる)を描いてみよう。と思いついたあの瞬間、目に見えない何者かに突き動かされたのではないか、と信憑性に欠けることばかり考えてしまうのは、自分がそんな風に神話のように仕立て、遊びたいからなのだろうか。
しかしやはりあの時、理屈では説明の仕様がない、奇妙な感覚であったのは、自らの身体が確かに覚えているのである。
前文で「直接手を使って描くことで、潜在的に眠っていた感覚を呼び覚まそうとする行為だったのかもしれない。」と綴ったが、もしかしたら自分の中でその時すでに予感するものがあったのか。
自分自身に起きている出来事にも関わらず、何故こんなにも他人の人生のように感じてしまうのかは自分でも不思議に思うが、この頃は「描かされている」という距離感にいて、何かに想いを託しているような気がしてならない。
また、自分という人間に生物的なある種の可能性を感じ、どんな世界を見て、何に興味を抱き、どう感じるのか。
そんな風にしてさとうひよりという一人の人間(生き物)を観察することを楽しんでいる。
ー
最後に、
遠野でのグループ展示「野生」に足をお運び下さった方々、誠にありがとうございました。
頂いた言葉や想いは私を勇気づけ、迷いながら拙い歩き方を肯定してもらっているような気持ちになり、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
またこのような心地よい展示会を開催できることを願い、これからも絵を描き続けていこうと思います。
そして、良いメンバーと開催できたことに感謝いたします。
1か月、みなさんおつかれさまでした。
2022年10月23日 さとうひより