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美しいってなんだろう

先の記事で売れなくても作り続けるのは、美しいからだ、と書いておきました。「美しい」ということは、抽象表現だ、何故ならそれはそれぞれに「美しさの定義」は違うでしょう。そういう見方は確かにできます。

1926年に端を発し、柳宗悦らによって、提唱された「民藝運動」は、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示した運動でした。

すなわち、美しさを定義しましょう、そしてそういうものを作りましょう、という運動でした。時代は機械工業化が加速的にすすみ、近代化の波が大きく押し寄せてきた時代です。

それは仮定ではなく、定義。正しいと思うことを声高々に発されます。

1.実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
2.無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
3.複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
4.廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
5.労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
6.地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
7.分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
8.伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
9.他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。

これら9項目からなるものは、初期に定義されたものですが、おおかたのそれは「ふつう」のものです。ふつうに生活に溶け込み、デザインされていると思わせないふつうのもの。

柳が著書『茶と美』において、国宝・喜左衛門井戸という茶碗について語っているのですが、それがすごく痛快で、勇ましく、そして自分の子どもを褒めるような眼差しが、僕はとっても好きです。一部ご紹介します。

「いい茶碗だ─だが何という平凡極まるものだ」
(中略)
それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗である。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性など誇るどころではない。使う者は無造作に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだってできたもの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつでも買えたもの、それがこの茶碗のもつありのままな性質である。

それは平凡極まるものである。土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山できた品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったのである。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわっていないのである。またいられないのである。安ものである。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事して食うのは止めたいのである。焼物は下賤な人間のすることにきまっていたのである。ほとんど消費物なのである。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛られるのは色の白い米ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅したら、誰だってこの光景に出会うのである。これほどざらにある当り前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。   
          柳宗悦著『茶と美』から喜左衛門井戸を見る、より

めちゃくちゃに貶したその奥に、とてつもない愛情が見受けられます。
言葉のテンポもいいし、最後の”これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である”とか「参りました!」という感じです。

こういうところに、僕も美しさを見てしまった。見てしまったら最後、こういうものを作らない、という選択肢はないのです。

それは平凡極まるものである。蝋は買い手のつきづらいものなのである。芯は名も無き人たちが巻いているのである。仕事場は蝋にまみれているのである。電気代がもったいないから少し暗いのである。数が沢山できた品である。仕事は早いのである。仕上げは荒っぽいのである。手はよごれたままである。職人はこれしかできないのである。身なりはみすぼらしいのである。太さには若干のばらつきがあるのである。だがそんなことにこだわっていないのである。またいられないのである。安ものである。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事して食うのは止めたいのである。ろうそくは下賤な人間のすることにきまっていたのである。ほとんど消費物なのである。すぐに使われてなくなるのである。多くの相手は死人である。誰だって、ろうそくがなぜ燃えるかに興味はないのである。きれいに燃えても燃えなくても、どっちだっていいのである。火事にさえならねば、何も言われないのである。燃焼は自然なのである。最後、火をつけるまでどう燃えるかなんて、わからないのである。昔はどこにいったって、ろうそく屋があったのである。これほどざらにある当り前な品物はない。これがまがいもない大與の看板「櫨ろうそく」の正体である。

生々しく、おどろおどろしさをも感じる中に、これでご飯食べてます、命の限り尽くしてます、否尽くすしかないのです、という生き方そのものに僕は美しさを感じているのだと思います。

また書きます。

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