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送りバントの話

25年くらい前、高校生の大西は野球部にいました。体も小さく、ホームランバッターではない選手が多いチームでした。

ある日のミーティングで、監督から「チームワークを漢字二文字で表現せよ」という謎の質問が投げかけられました。

「仲間」とかですか?と答えると、

甘い。「犠牲」だ。と言われました。

ごくり…

「仲間」も正解だろう、と思っていましたら、「お前ら、チームのために犠牲になれるのか」とこっちの気も知れず、話は進みます。

犠牲ってなんだろう、と大西少年は考えました。野球の戦術でいうと、送りバント。自分はアウトになりますが、走者を前へ進め、チャンスを広げます。

次に繋げて、あとに託す。あとのものは、思いを受け、力に変える。それが送りバントです。

つまり、弱小チームが送りバントもできないとか、チームでもなんでもねー、というのです。

そういう話を聞いてから、野球を見てますと、高校野球でもプロ野球でも、送りバントを決めたバッターに、ホームランを打った選手みたいにハイタッチしているんですね。

送りバントとホームランは同じ価値があることを知りました。

犠牲という言葉は強いので、今なら、ネットでいろいろ叩かれるんでしょうね。特攻を肯定するのかー、とか言って。
当時はポケットベル絶頂期でしたから、結局先生のポケベルが炎上することはありませんでした。
「721106(何言ってる)」とかくらいは来たのかな。そして、これからお話しすることはそういう話ではないことを付け加えます。

俺の屍を越えていけ、と言うと大袈裟ですが、伝統工芸も人類も根っこは、未来のため、後進のために犠牲になることの連続なのだなー、と思うのです。

伝統工芸も人類も知と技の集積です。
何を伝え、何を繋ぐか。
どのように伝え、どのように繋ぐか。
なぜ伝え、なぜ繋ぐのか。

犠牲というのは、自分が死んだあと、自分が蓄えた知と技を未来のために、後進たちが力にしてくれてこそです。

ジョンは想像力を、ガンジーは暴力に立ち向かう勇気と知恵を、父は(まだ生きてます)大與のスピリットを残し、僕に影響を与えてくれています。

だからといって、そういった犠牲が僕に影響を与えたところで、未来の大勢はきっと変わらないですし、温暖化も止まらないでしょう。

ただ、「無駄死にしてたまるか」と変わらないかもしれない未来のために短い命を燃やすことは美しいと思います。

伝統工芸の現場にいて、僕は次の世代に何を残せるのだろうか、という視点をどこかで意識しています。

その原点は送りバントだったのかもしれません

また書きます。

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