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コート・ダジュールと南仏の画家たち④

 1917年のクリスマスの日、マティスはニースにやってきた。亡くなるまでの40年近くを、この陽光溢れる南仏の町を活動の拠点とする。
 しかし最初の一週間は、雪の降りしきる日々が続き、来る日も来る日も晴天に恵まれなかった。業を煮やしたマティスがニースを去ろうとした翌日、それまでとは打って変わって、この土地らしい眩い光が辺りを包んだ。この鮮烈な体験が画家をこの町に留まらせることになる。
 マティスの美術館は、町外れの高台の上にある。その赤い瀟洒な館には、「ブルーヌード」や「スイミングプール」など、画家の後半期の壁画や切り紙絵の作品が中心に並ぶ。色彩の絶妙なる調和と、決して上手くは見えない線描の巧みな鮮やかさは、この画家の特質となっている。他、デッサンや彫刻なども並ぶ中、ヴァンス礼拝堂の下絵や制作過程なども展示されている。
 ニースはコート・ダジュール随一の町であり、海岸線も長い。ニースの海が美しいのは長く弧を描いているからで、その気品ある佇まいから「リヴィエラの女王」と呼ばれる。長い海岸線を前に拡がる街にも、他の町にはない風格がある。
 しかし世界中から猫も杓子も皆ニースに押し寄せる昨今は、やはり観光地化され過ぎている。せっかくの旧市街も、街や人の趣きは、観光客に掻き消されていた感は否めない。
 彼らがぞろぞろ歩くなかを、私はそぞろ歩いた。旧市街も歩いたし、海岸線も歩いた。19年の熱波のさなかだったので溶けるように暑かったが、夕方の海岸は気持ちよかった。
 ニースでは海に入らなかった。入らなくとも海を存分に浴びることができた。緩やかに弧を描いた海岸線には、爽快な、バルコニーのような散歩道が続いている。色とりどりの水着と、賑やかな音が、真下に拡がる。そんな彼らの視点よりも、彼らを見下ろしながら、海のいちめんのきらめきを全身に浴びて歩く方が、ここがニースであるという実感がしたのである。
 
 
 ニースを出た列車は、それまでのなだらかな海岸線とは打って変わった、起伏のある景観の中を走って行く。ところどころで山は海岸に迫り、美しい入り江が度々続く。海はどこまでも青く、透き通っていた。
 列車はある入り江の前で止まった。そこはヴィルフランシュ・シュルメールという駅だった。ホームの真下に砂浜が拡がり、ホームからは海が一望できた。遠方では無数のヨットが海に浮かび、眼下には色とりどりのパラソルが置かれていた。絵に描いたようなヴァカンスの光景が目の前に拡がる。車窓からでも、その光景は強烈だった。
 列車はさらに進んで、エズに。地中海の絶景で知られる鷲の巣村エズへのアクセスはバスが便利で、海岸線にある鉄道の駅からは、急峻な坂道を登らなければならない。さらに進むとモナコに。言わずと知れた富裕層の集まる保養地で、モナコグランプリでもおなじみである。そして、モナコを出るとすぐに、カップ・マルタンという辺鄙な駅に、列車は着いた。
 カップ・マルタンの駅には屋根がなく、見た通りの無人駅だった。辺りは木立と広場があるばかりで、ひっそりとしている。すぐそこがモナコというのが嘘のようである。
 駅前に一つだけ目立っている白壁の酒落た建物は、案内所兼グッズ売り場となっていた。壁には、この村の呼び物である、丸眼鏡の男と貴婦人の顔が描かれてある。
 ここカップ・マルタンへは、観光客はあまりやって来ない。無人駅は、列車もろとも素通りする。しかしこの辺鄙な場所には、20世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエが夏を過ごした休暇小屋がある。
 コルビュジエと、女流デザイナーのアイリーン・グレイの建築のために、稀に、この辺鄙な場所に訪問客はやってくる。彼らの建築はもちろん素晴らしいのだが、それだけでここを去ってしまうのももったいない。
 駅から崖のような坂を登ると美しい村がある。カップ・マルタンは海に近い鷲の巣村である。私は汗だくになりながら、激坂と階段をいくつか登って行った。
 村の広場からは地中海を一望できる。素晴らしいロケーションである。しかしなぜか、あまり人はやって来ない。地中海の強い光と陰のコントラストの中、村一帯はまるで時が止まったかのように静かだった。路地はどこに入って行っても美しく、歩いていると旅をしているという実感があった。
 私はレストランのオープンテラスで昼を摂った。オープンテラスといってもただの道端だったが、往来がほとんどないのでまったりとしている。テーブルに置かれた真紅の皿のすぐ向こうには、目の眩むような光があった。それは気だるいような、美しいひと時だった。
 村から坂を降りる。真下に、もの凄い角度で海が見える。むしろ海しか見えない。私は逸る気持ちそのままに、その青い一面に突き刺さるようにして降りて行った。
 砂浜ではない、石だらけのビーチには、華やいだ雰囲気はない。ただ美しい海が目の前にあるだけの、素朴なビーチである。しかしその素朴のなかに一点、目を惹く光景がある。コルビュジエの丸太小屋とアイリーンの白い家である。それは海からよく見える。
 17年秋に日本で公開された映画「ル・コルビュジエとアイリーン・追憶のヴィラ」で私は、白い家の下に拡がる眩いばかりの海に強く惹かれた。カップ・マルタンへ行って、あの海から、彼らの建築を眺めたい。そう思った私は19年夏のコート・ダジュールへの旅で、マティスの礼拝堂とともに、ここをメインテーマに据えたのである。
 かつてコルビュジエが夏の間そうしたように、私は海に入り、地中海の光のなかで泳いだ。岩場の上の彼らの建築は現れたり消えたりしながら、海面の向こうに浮かんでいた。それは五感を刺激する、この上ない旅の体験となった。
 
 
 さて、カンヌから続いたコート・ダジュールの旅の舞合も、いよいよ大トリである。列車は終点マントンに着いた。この先はもうイタリアである。カップ・マルタンに多くの時間を費やしてしまったために、この素晴らしい町の滞在が少なくなってしまった。
 駅を出て海浴いのプロムナードを歩いて行くと港に出る。港の要塞や、近くにある現代的なフォルムの建築は美術館になっていて、ジャン・コクトーの作品が多数展示されている。「豪奢と素朴が同居する」というコクトーの言葉通り、観光地化の激しいニースよりは、旧市街には趣きがあった。
 海治いから長い階段を上がって行くと、旧市街の路地が展開される。なかへ入って行くと、家々はカラフルで表面上はポップながら、これまでにコート・ダジュールで見てきたどの旧市街にもない、ある、もの悲しさがあった。表通りの煌びやかさとは対極のものが、ポップな外観の底を流れていた。この町は旅人を虜にする。私はそう思った。
 海に一艘、浮かんでいるのが見えた。マントンの旧市街は海辺から階段状に拡がるため、海上からは、家々のカラフルな外観が立体的に見えるという。海に出て街を眺めるのもいいし、背後の丘に登って街と海を見渡すのも気持ちよさそうだ。次来た時はこの町に滞在して、より多角的に巡ろう。
 そんなことを思いながら、私はマントンを後にした。

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