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地中海へ 〜南仏アラカルト〜 マルセイユ

 マルセイユ・サン・シャルル駅には、古き良きヨーロッパの駅の雰囲気がある。この駅にやって来ると、私はいつも旅情を感じる。パリのようにハイテンポでなく、ニースのように浮ついた感じでもない。この駅に降り立つ人には、旅人という言葉がよく似合う。上気した色を顔に浮かべる者もいれば、ホームに視線を落とし沈思する者もいる。皆それぞれの旅の境遇にいる。
 パリやニース、モンペリエなどへ向かう幹線を除けば、出発する地方線は二つある。一つはエクスアンプロヴァンスへ向かう路線で、もう一つは近郊の地中海岸を行く景勝路線である。
 私はこれまでに何度もエクスとマルセイユを往復したが、驚くべきことに、この路線は列車の発車予定がよく消える。代わりのバスに乗るのだが、そもそもこの区間はバスの方が発達していて、毎時10分おきに出ている。それが判っている地元民はバスを使う。調整のためだろうか、振替で使う時はバスは決まって空いていた。
 もう一つの景勝路線はコートブルー線といって、地中海のきらきらとした海を横に見ながら進んで行く。コートダジュールのような喧噪はなく、フランス人のための避暑地という印象である。一帯は岩場が海に迫り、そうした山ぎわの素朴な集落を掠めるようにして列車は進む。
 路線にはセザンヌなどの絵で有名なレスタックもあり、その先にはビーチも点在している。この辺りの海岸の夏は、暑いが涼しい。日差しはギラギラしているが、風は涼しく、木陰は嘘のように気持ちいい。海辺が避暑地と言われる理由が、ここに来るとよく判る。
 レスタックからの帰りの列車で、私はマルセイユに住むフランス人青年と少し話をした。マルセイユは旅人には、いい町だと言う。しかし住む人にとってはよくないとのこと。
 マルセイユはマフィアの街とも言われてきたが、2013年には欧州文化首都に選ばれたこともあり、旧港前を中心に街は洗練され、近年のイメージはよくなってきている。移民の多い街でもあるが、住む人に対して政治が優しくないのだろうか。
 マルセイユで会ったと言えば、駅の売店で日本人とのハーフの学生に「日本の方ですか」と声をかけられたことがあった。夏の間そこで働いているというその学生は、日本で育ったとのこと。日本の若者が話すような違和感のない日本語を操っている。マルセイユでは日本人はほとんど見かけないから声をかけたという。
 私はその学生にレジを担当して貰ったが、言葉はもちろん、動作やちょっとした仕草まで、日本でみる光景を久し振りに目の当たりにして、少し不思議な感覚になったのをよく憶えている。
 マルセイユ・サン・シャルル駅は高台にあって、駅を出ると街を一望できる。いきなり展望台から旅が始まるといった感じである。そして、ナポレオンか何かが凱旋するような、幅の広い一直線の階段を降りて街に向かう。駅から街の、このアプローチは他にはない。初めてマルセイユを訪れる時は、鉄道がいい。厳谷國士氏も「ヨーロッパ夢の街を歩く」の中で、そう書いている。
 
 
 旧港前広場にやって来た。昔も今も、旅人がまず訪れる場所である。魚市が繰り広げられ、海上には無数のマストが並ぶ、絵に描いたようなヨーロッパの港町の光景だが、現在はそこに、ある〝異物〟が入り込んでいる。
 大きなステンレスの平屋根と、細い柱で幾何学的に構成される日除けのモニュメントは、猥雑な港町のなかで、絶妙な存在感を放っていた。涼しげな一枚のステンレスが、がやがやした街を背に、青空に浮かんでいる。
 屋根の下に入る。見上げると、海の青や白い船が眩しく、周りの建物を背景に、人が行き交っている。ステンレスの屋根がすべてを映しているのである。港町の美しい景観を見事にブラッシュアップしている。最小の絵筆で最大の効果を描くというノーマン・フォスターのその作品は、まさに絶妙なる調和を生んでいた。
 港湾沿いを歩いて行く。右手にはレストランが並び、左手は海に浮かぶマストの列が幾重にも続いている。先端まで来ると、昔の要塞の防壁があった。そこを上ると不意に、外壁がレース細工で構成された、キュービックな建物が目に飛び込んできた。
 モダンな建築は地中海文明博物館で、ミュセムと呼ばれる。13年の欧州文化首都に選ばれた一環で建てられ、今ではマルセイユの新名所となっている。
 ミュセムには、空中回廊を通って入る。眼下に海を見ながら、50m以上ある細長い橋を伝って行くとそこは、このモダンな建築の屋上だった。地上に向かって鑑賞して行く。
 鑑賞しながら展示空間を抜けて、壁に沿って移動して行くと、レース細工の隙間から海が見えた。眼前は明るくなり、区切られた無数の隙間から見える地中海の青い景色は眩しく、足下には絡み合う陰が鮮やかに浮かび上がっていた。
 展示空間を過ぎ、脳裡にある残像に光が当たる。地中海の展示物は、地中海の光を通して、私のなかに差し込んできた。このミュージアムの魅力は、こうした体感にあると言えるだろう。私が訪れた16年夏は、ピカソの特別展を併せて開催していた。
 城塞と箱物建築の明るい港湾沿いから、小径を中へ入って行く。すると、がらりと様相を変える。そこはパニエ街と呼ばれる所で、細い路地が入り組み、独特の景観をなしていた。瀟洒とカオスが同居している。
 家々はカラフルで、ところどころワンポイントに花が咲いていた。雰囲気のあるアトリエがあったりして、地中海地方の街に共通するセンスのよさがある。しかし一方で、猥雑な下町の路地裏のような景色が展開され、頭上には無数の洗濯物が風に身を翻している。縦列駐車はありえない配列をなし、どう見ても他の車に触れずに出せそうにない。
 マルセイユは多面的で、歩く度に表情を変える。例えば隣のエクスは、すべてが中の上で、ゆったりとした雰囲気以外の感じを受けることはない。しかしマルセイユにおいては、落ち着いてはいられない。
 注意深く観察すると、いかがわしい人はそこかしこにいる。隙あらば人の財布を掠め取ろうという気配を、どこからか感じないでもない。あるとき旧港前の店で私が食事をしていると、子どもが物乞いをして来た。辺りを窺うと、少し離れた所で様子を見ている親の姿があった。普通の感覚だとこんな場合は親は子をたしなめるものだが、戻った子に対して親が示したのは、労わりだった。マルセイユは、このようなことが当たり前の日常として存在している。明るい港湾都市の表層の下に、様々な面を内包していることが、この街に独特の愁いを与えている。
 再び埠頭に戻り、要塞の高台に上った。そこからでも見晴らしはよかったが、塔があったので中に入り、狭い螺旋階段をぐるぐると登って行った。
 塔の上からは旧港全体と、港を挟んだ対岸の街と背後の丘、沖合の海までが一望できた。旧港にはマストを立てた夥しい数の船が浮かび、そこからは数十秒単位で、延々と船が出ていた。多くは小型船やヨットである。皆めいめいに、きらきらしたものを採取しに行くような、上気したものを乗せて、沖合に繰り出して行く。
 私はしばらくそれを眺めながら、これからの旅の行程をあれこれと夢想していた。

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