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マネのパリ③

 パリ17区バティニョール街。マネや印象派の好きな人ならその名前を聞いたことのある人は多いだろう。19年の旅はここから始まった。パリ滞在の拠点もここである。マネの住んだところもアトリエも、後の印象派の画家たちと語らい合ったカフェ・ゲルボワも、すべてがこの街にある。
 私はホテルを出て真っ先にバティニョール教会を訪ねた。マネの絵に描かれている訳ではなく、特に名の知れた教会という訳でもない。外観も田舎町の役所といった風情で、三角屋根の上の小さな十字架だけが、ここが数会であることを報せていた。
 教会はこの地域の地元民の祈りの場であり、教会周辺は地元民の憩いの場である。背後にはバティニョール公園が控え、脇の広場には庶民的で雰囲気のいいカフェやレストランが軒を並べている。
 バティニョール教会の前のロータリーを挟んだ向かい側に、かつてマネは住んでいた。オテル・ド・ヴィル街三番地。現在、一階はパン屋になっている。そこから教会を背にしてバティニョール通りを南に歩いて行く。
 パリ北西に位置するバティニョール街は、現在もアーティストや職人が多く住み、生活用品の商店の並ぶ下町で、いつも賑っている。お隣のモンマルトルのような観光客を相手にする街ではない。庶民的で活気があって、パリジャンの住みたい街として人気が高い。肉、魚、野菜、チーズ、本、服、家具と、あらゆる店がひしめいている中に、センスのいいスイーツの店があったりする。
 そのまま真っすぐ歩いて行くと大通りに出る。そこからクリシー広場にかけての界隈は、かつてのマネの活動の場であり、オテル・ド・ヴィル街三番地を出た後のマネが居を構えたところでもあった。まだ世に出る前の印象派の画家たちと語らい合ったカフェ・ゲルボワがあったのもこの界隈である。
 大通りを渡りさらに南に進み、サン・ラザール駅に向かう鉄道の路線にほど近い場所にあったのが、マネのアトリエである。サン・ペテルスブール街四番地。サン・ペテルスブール通りにベルヌ通りが突き当たるところで、ベルヌ通り側から正面に、アトリエのあった場所が見える。ちなみにこのアトリエからベルヌ通りを見渡して描いたのが「旗で飾られたモニエ街」で、当時ベルヌ通りはモニエ通りだった。
 同じ祝祭を描いた絵としては、モネの「モントルグイユ街」が有名だが、マネの絵とはずいぶん趣きが違う。「旗で飾られた」と名付けられた通り、マネの絵は両側の窓から伸びる旗だけが賑やかで、通りは歩く人はほとんどなく空疎である。通りの歓声が街に響くモントルグイユ通りは現在も変わらず、モニエ通り改めベルヌ通りの現在も、路上駐車の車が両側を埋めているばかりで、今も昔も変わらず空疎である。
 マネのアトリエからサン・ペテルスブール通りを100mほど歩くと景色が展ける。そこは橋になっていて、眼下に列車が走っている。先に見えるサン・ラザール駅では、列車が吸い込まれたり吐き出されたりしている。
 マネの生きた時代のパリは近代化真っただ中で、鉄道はその象徴だった。一足先に近代化を実現したイギリスでは、ターナーがそれをモチーフにしていた。
 パリで最初の鉄道は1837年にサン・ラザール駅からスタートした。マネも印象派の画家たちも、こぞってこの題材にとびついた。モネは「サン・ラザール駅」で、煤煙のなか発着する列車を描いた。しかしマネの「鉄道」には、列車は描かれない。汽車の煙が絵の多くの空間を占め、そこに列車があることを観る人に伝えるだけである。その舞台、視点が、まさに今立っている地点である。
 ここから描くとなると、多くの線路と、その先の駅舎から出入りする列車と、当時の汽車の煤煙と、絵心をくすぐりそうな題材だが、マネはそうは描かなかった。
 画面いっぱいに黒い鉄柵を配し、前面に大きく母娘を置いている。母はヴィクトリーヌ・ムーラン。10年の時を経て、オランピアの小娘はママになった。娘である少女は柵の向こうを見ている。しかし柵の向こうの鉄道風景は、汽車が吐き出しているであろう白い煙によって遮られる。
 つまり画面の多くを占める母娘の背景は黒い柵と白い煙。こちらに背を向けた少女が見ているのは、おそらく鉄道だろうという構図。私は眼下の線路を見ながら、この風景さえ二次元に描くマネに驚嘆した。
 マネの生きた19世紀は写真が絵画に取って代わった時代で、必然的に絵は絵としての道を歩まねばならない。写真のように正確に描くのではなく、画面の中での構成を練り、存在感を際立たせる。マネはそんな時代に絵画の方向性を示した画家であり、それはセザンヌを経て現代の絵画まで繋がって行く。

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