見出し画像

熱狂のツールドフランス

 2016年のツールドフランスは7月2日、モン・サン・ミッシェルにて開幕した。海に浮かぶ有名な教会を背景に、22チーム198人がスタートしたレースは、ピレネー、アルプスを経て、パリ・シャンゼリゼを目指す。全行程3530km、三週間に及ぶ耐久レースの始まりである。
 私はその時ルーアンにいた。観光の合間にホテルのTVを点けると、日本の新城幸也選手がボトル交換のためか大写しにされていた。サッカーの大会に合わせて私は当時フランスに来ていたが、その終盤と、ツールの序盤の日程が重なっていた。半年以上前に、三週間のコースは発表される。かねてより念願だったツールドフランスの観戦も、この機会に果たしてしまおうと思いついたのである。
 モン・サン・ミッシェルでのグランデパールの観戦も考えたが、翌日第2ステージのコースプロフィールに、私は目が止まった。平坦ステージではあるが、ラスト3kmで急激に登っている。その時、狙いを第2ステージゴール地点のシェルブールに定めた。観戦可能な序盤戦は平坦ステージが多かったが、この日の頂上ゴールに魅力を感じたからである。
 私がツールドフランスに魅せられたのは、2012年のことである。三週間通して映像を観たのはこの時が初めてで、ウィギンスが優勝、チーム・スカイによる覇権の幕開けとなった。スカイの鉄壁なレース運びにより単調な展開となる中、一人気を吐いたのが同じチームのクリス・フルームだった。チームのアシストながら、山ではエースのウィギンスを上回る爆発力をみせた。そのパーソナリティに、私は引き込まれた。頂上までチームに運んで貰うような総合覇者など見たくない。山で独力で加速して他を引き離してこそ、総合覇者に相応しい。翌13年には満を持してチームのエースとなったフルームは、他を寄せつけぬ圧巻の制覇を果たした。魔の山モンヴァントゥーでは、あのコンタドールをシッティングで引き離した。フルームの時代到来を象徴づける瞬間だった。15年も優勝し、16年の今大会は連覇を懸けて臨んでいた。
 もう一人、注目してきた選手を挙げるなら、ホアキン・ロドリゲスである。勾配20%を超えるような激坂になると、フルームやコンタドールでさえも、ホアキンの後塵を拝する。しかし激坂で無類の強さを発揮する一方で、総合力ではこれらの選手に一歩及ばない。平坦でのタイム・トライアルを苦手とするホアキンは、ここでライバルから大きく遅れをとる。平坦でもテクニカルなコースなら上位にも着けるし、山ならタイム・トライアルでも強い。コース次第では総合優勝のチャンスはあったと思うが、いつも何かが足りず、終わってみれば表彰台の左か右が定位置となっている。16年のツールはアンドラで休息日を迎え、家族とともに住むこの地で、ホアキンは選手生活を引退する決意を固めることになる。
 
 
 7月3日。シェルブールには正午過ぎに着いた。滞在先のルーアンからは西へ300km近く離れており、鉄道だと乗り換えもあり3時間はかかる。それでも、午後5時頃になると予想されるレース観戦の後に帰途に着いても、十分に日帰り可能である。
 シェルブールはイギリスに向かって突き出した半島先端にある港湾都市であり、ノルマンディー上陸作戦では烈しい攻防戦の舞台となったところでもある。映画「シェルブールの雨傘」でも知られている。
 しかしその時の私にとっては、ノルマンディー上陸作戦やシェルブールの雨傘よりも、大西洋だった。フランスを一周したとは言っても、見てきたのは地中海だけだった。初めて目にする大西洋。それがシェルブールだった。
 着いたら雨だった。駅を降りるとそこはもう港の前である。ちょうど昼時でもあり、雨宿りも兼ねてピザ屋に入った。シーフードのピザを頼むと、牡蠣が入っている。フランスにおける牡蠣の一大産地カンカルは、シェルブールからも近い。牡蠣のピザは初めて食べるが、小ぶりながらなかなか旨かった。
 しばらくそこで雨宿りをしていたら、雨が上がった。通りへ出て、旧港沿いを歩いて行く。観光客はほとんど見当たらない。静かな港町である。映画の舞台として有名で、歴史的に重要な地でもあるが、それほど観光地化はされていない。
 初めて目にする大西洋は、曇っていることもあって、暗く沈んでいた。それまでに見てきた地中海とはまったく違って、海の色だけみれば、ここが日本海と言われても違和感はなかった。
 旧港に沿って通りを歩いて行くと、そのまま一周できるようになっている。時刻は3時。沿道は次第に活気づいて行く。あと2時間もすれば選手たちはやってくる。沿道も、カフェのオープンテラスも、祝祭の賑いを呈していた。静かな港町はうねりのように、次第次第に熱狂のひと時へとボルテージを上げて行った。
 いま歩いてきた旧港を向こうに海を眺めると、私はどこかで見た景色だと思い至った。港には無数の船が浮かび、マストの上の旗は風になびいている。周りを街が取り囲み、真ん中には鉛色の海が置かれている。
 船上の旗を除いて、すべてがモノトーンの世界である。これと同じ構図の絵を、どこかは思い出せないが、私は美術館で見ている。モネやシニャックだったか、あるいはベルナール・ビュフェのような絵だったか。それはビュフェの黒い描線を思わせるほど、南仏の旧港風景とは受ける印象はまったく違った。目の前の景色は沈んでいるが、何とも言えぬ趣きがあった。
 さらに進んで行くと、鼓笛隊の一団と擦れ違った。モノトーンの景色の中で、鮮やかな一団の奏でる音色が響く。彼らは軽快なリズムで、灰色の空にぶつけていた。
 第2ステージは183kmの行程で、最後はシェルブールの街を過ぎた後、丘に登ってゴールする。選手たちは午後1時スタート、予定では5時にはシェルブールの街にやって来る。
 残り3kmのバナーを潜ると、道は急激に上り始めた。沿道の観戦者たちの多くは、赤の水玉ジャージを着ている。マイヨジョーヌでもマイヨヴェールでもなく、山岳ジャージというのが面白い。
 残り1.5km辺りの地点で私は陣取ることにした。勾配14%、一番の激坂区間である。道は大きくカーブを描きながら、さらなる高みへと向かって行った。
 3時半を過ぎた頃から、色々なメーカーの商品やイメージを象った宣伝カーが通り始めた。彼らは菓子やジュース、洗剤、シャツ、帽子、文房具など、次々と自らの製品を惜しげもなく配りまくる。沿道の観戦者は皆、手を伸ばして受け取る。これを連日150km以上に及ぶ区間を三週間に亘って延々と続けるのだから、ツールドフランスはまさに国を挙げた一大イベントである。それに参加するのは、TVでは判らない本場のツール観戦の楽しみと言える。
 中には、とんでもない物体の移動もあった。巨大な紙パックジュースや、巨大なタイヤだけが移動しているのには仰天した。車の形状どころかミラーやライト、フロントガラスすら見当たらない。どこで運転しているのかは知らないが、普段なら確実に道路交通法違反である。気がつくと沿道では、店ができるほどの製品をゲットしている人もいる。こんな具合に、選手がやって来る前に、一時間近く楽しみは続く。
 珍行列が終わると、しばらく静寂が続く。自転車レースはチーム競技で、リーダーを勝たせるためにチームは機能する。よって山岳の続くコースでは選手が徐々にちぎれて行き、最後はリーダー同士の一騎打ちとなることが多い。しかしこの日のコースは、最後の丘まではほぼ平坦であるため、プロトンは集団で登ってくることが予想された。
 4時50分。静かだった観衆の前の方から、地響きのような歓声が漏れ伝わってきた。逃げはトレックの選手一人だけだった。一分もしないうちに、さらなる歓声とも嬌声ともつかぬ大音量がすぐ前の方で起こった。いよいよ今日のハイライト、熱狂の時を迎える。
 それは突然だった。黄色の選手が一人、すぐ下のカーブから飛び出した。キャノンデールの選手である。しかしそれを意識する間もなく、次、次と、選手が飛び出してきた。私はもはやカメラを構えてなどいられなかった。この光景を、この瞬間を、目に焼き付けなければならぬ。
 すると、黒い集団が縦一列で現れた。チーム・スカイである。その4人目か5人目に、下を向きながらカクカクと特徴のある、TVでよく見てきたあの姿が、はっきりと目に飛び込んできた。
 フッルーム‼︎
 思わず私は叫んでいた。フルームはカクカクしながら一瞬、私の方を見たようだった。ティンコフのコンタドールや、カチューシャのホアキン・ロドリゲスも通り過ぎて行ったが、反応できなかった。登り勾配といっても最後だけなので、多くの選手はそれまでの平坦区間の勢いそのままに、一瞬で私の前を通り過ぎて行った。
 集団が流れ去って行った後は、微風だけが残っていた。贅沢な瞬間は、いま終わってしまったのである。ほどなくして、上の方でゴールの歓声が起こった。私はそれを耳にしながら、それとは反対の方へ、登ってきた坂道を下りて行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?