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ポール・セザンヌ紀行③

 南仏におけるセザンヌの絵の舞台はエクスの他では、レスタックがある。マルセイユからコート・ブルー線に乗って、海岸治いを走って10分ほどで着く。セザンヌは普仏戦争時の疎開先としてこの地に着いた。以来、この地から見える景色は画家の大きなモチーフとなった。
 駅を降りるとすぐ、レスタックを描いた画家の絵の案内板がある。しかしそこからは角度的に海が見づらい。セザンヌの絵のように町と海を見るには、町とは反対側へ坂を登る必要がありそうだった。
 坂を登るとすぐに家々の並は切れ、道はその先で止まっていた。行けるところまで行って、私は振り返ってみた。前景からレスタックの町、湾曲した海、対岸の町と山と、一応は三分割にはなった。しかし海の領域は狭く、対岸の陸との境界線も絵のように斜めには走ってなかった。ただこの三分割は形だけではない。家並のオレンジ、海の青、対岸の白と緑。この鮮やかな色の三分割が、セザンヌの形態を呼び起こすだけの力を持っている。
 レスタックはセザンヌ以降、様々な画家のモチーフとなっており、色彩を解放したデュフィや、形態を解放したブラックが代表的なところである。。セザンヌは自然を見た感覚を画面の要請に従って構成して行ったが、後に続く画家はこの構成のところを理論的に抽出して実験を重ねた。
 確かにレスタックの町は、絵画の実験にはいいかも知れない。町のいたるところからそれが感じられる。色も形も、何か想像を呼び起こすような、何かヒントとなるような、そんな欠片のようなものが散りばめられている。
 海岸まで降りて西へしばらく進むと、きらきらした海の向こうに、石灰質の岩塊を背景に鉄道橋が横切る景色がある。色も形も見る人を惹きつける。実際にブラックはここを題材に作品を遺している。
 
 
 再びエクスに。ミラボー通りを奥に進んで行くと、すぐ町外れに出る。さらに少し歩いて行くと、セザンヌが眠るサン・ピエール墓地に着く。入口から左奥に進んで行くと、特に何の変哲もない墓の列の中にそれはあった。パッシー墓地のマネのように胸像がある訳でもない。他と区別されている訳でもない。近代絵画の父と崇められる巨匠の墓にしては、いたって普通である。
 墓の手前には小さな花壇があり、そこに錆びた鉄枠がある。地元の人の話によると、それは額縁で、画家の絵が嵌め込まれてあったという。寂れたモニュメントは、もはや目印にもなっていなかった。夕刻の涼やかな空気の中で、私は墓の前で手を合わせた。
 セザンヌは画家を志して以来、パリとその近郊で先輩や同世代の画家たちの刺激を受けながら、エクスに戻って自らの絵を磨き上げて行った。パリでメソッドを吸収し、エクスでモチーフを探求する。その繰り返しの中で、誰も成し得ない極みへと進んで行った。
 特に感じるのは、モチーフへの対い方である。色調も形態も、対象を見続け、そこに在るかのように描く。決して見慣れた眼では描かない。自然を論理で修正することなく、自然を見た感覚を論理化する。そして観る者も同じ感覚が呼び起こされるような永遠の一枚に仕立て上げて行く。
 エクスで生まれ育ち、エクスで描き続けたセザンヌだが、街や人の様子には興味がないのかと思われるほど、それらを描いた作品は少ない。寝食以外はアトリエと郊外の自然との往復に終始していたセザンヌが生涯かけて追求していたこと、それは、ものの在り方である。モチーフと対峙しながら、その存在とそこから受ける感覚を、どうキャンバスで実現させるか。エミル・ベルナールが「回想のセザンヌ」の中で、セザンヌの眼は脳膜にあるというようなことを書いていたのを私は思い出していた。
 私はしばらく思念した後、そこを離れた。その時、墓地の向こうに少し、ほんの少しだけだが、サント・ヴィクトワール山の頂が見えた。
 
 
 パリのプティパレ美術館に、「三人の水浴の女たち」という絵がある。水浴する女も樹木の幹も収まるべきところに収まっている。色調のグラデーションも絶妙で、いかにもセザンヌらしい作品である。若き日のマティスはヴォラール画廊でこの作品を目にした途端に虜になり、当時の彼には高額な絵を購入した。以来、美術館に寄贈するまでの37年間、マティスは作品を手元に置き続けた。
 ピカソもまた、その若き日に、セザンヌの啓示を受けている。18年春のビュールレ・コレクション展で来日した「扇子を持つセザンヌ夫人」という肖像画がそれである。人物も静物のように描くセザンヌの肖像画の特徴が如何なく発揮されている。絵の構図と存在感は、絵画の指針を示しているとさえ言えるだろう。ピカソは後にこう言っている。
 ー彼は私たち皆の父親のようなものでした。私たちを守ってくれたのは、セザンヌだったのです。・・・
 後世の画家たちはセザンヌのなかから自分なりに何かを摑み取り、自分なりのやり方でそれを乗り越えて行った。20世紀美術、そして現在に至る潮流の源に、ポール・セザンヌという画家がいる。
 しかし私はそうした事実とは別に、この画家の絵を前にした時の感動と興奮とは何なのだろうか考えた。画家の構図。形態。色調。その何れもが一体となって胸に迫ってくる。肖像画も静物画も風景画も、モチーフを前にした時の画家の興奮が乗り移ってくるかのようである。ものを見た時に起きる感興、その感覚をキャンバスに実現すること。それに生涯を捧げたセザンヌの画業を思うと、胸がいっぱいになる。
 私は考えを巡らしながら、ある形態と色彩が脳裡に浮かんだ。くらくらするような夏のプロヴァンスの木立の中をペダルを漕ぎながら、突如現れた形態と色彩。あの時目の前にしたサント・ヴィクトワールの山塊がしばらく私を支配したが、それは僅かの間で、再び禅問答のような思念へと入って行った。

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