語学学校の授業で”置物”になった話。
英語なんかよりも、もっと重要なこと
メルボルンでの10か月は、僕にとってすべてのことが初めてで、新たな気づきと可能性を示してくれました。
知り合い0、初めての土地、通じない言葉…最高にチャレンジングでエキサイティングな10か月になったと思います。
僕の場合、サッカーと同じくらい英語習得に対して情熱を注いでいたので、3か月の観光ビザと7か月の学生ビザでの滞在、学生ビザの期間は英語学校に行って英語を勉強しました。
その学校で受けたEAP(English Academic Purpose)というクラス。
開口一番、先生のBenが言った言葉が
「俺は英語を教えない。いまこの世の中で起こっている事実を教えるからそれについてひたすら考えてくれ。」
評価はディベートとエッセイのみ。もちろんその中で使われる英語の正確さや流暢さも評価されるけど、あまり彼はそこにフォーカスしていませんでした。
事実から何を考え、どのように解決策を生み出すかを評価されます。
英語である程度伝えたいことを伝えれるようになったことで伸びきった僕の鼻が、完全にへし折られた授業でした。
伝えるための“手段”が
勉強する“目的”
になってしまっていた僕の、完全な失敗談です。
テスト嫌いな外国人
ディベート嫌いな日本人
ふと後輩から借りた「メモの魔力」という本の中でこんなことが書いてありました。
メモにおける最強のフレームワークは「ファクト→抽象化→転用」である。
メモを取るうえで、何か一つのファクト(事実)に対して、
そこから自らがやりたい事業に向けて応用するためのプロセスが可視化される
ことが何かアイデアをクリエイトするうえで重要であるということです。
ある日の教室。いつものようにディベートの時間。
議題はこうでした。
―気候変動における生物への影響―
「近年の気候変動により、海面温度の上昇が原因で生じる水中酸素濃度低下で、海の生物が住めなくなる水域、“デッドゾーン”が拡大している」
という事実から、それを解決するためのディベートが行われていきます。
「バクテリアが有害物質を浄化する働きがあるから~」
「私たちの生活において意識できることは~」
彼らは問題に対してこのプロセスがすでに装備されているから自分の意見をすぐ発言できるんだろうな。
なんか言おうと思ったら、そのトピックは、はるか彼方においてかれているのです。
完全に置物。いる意味なし。
“事実”を知る勉強をして、その定着度によって良し悪しを評価される教育を受けてきた僕にとって、
“事実”から“何が言えるか“を考え”解決”することにフォーカスしたアクティビティは苦行そのものでした。
文法や単語のテストではある程度周りと比べて点は取れるけど、自分の意見を伝えるという本番の舞台で全く良いパフォーマンスを発揮できない。
その状態では英語が話せたって意味がない脳みそだったということに気づけた瞬間でした。
日本の教育って…
教育実習をしたときに思ったのは、知識を教える時間はかなりあるし、それをどのようにわかりやすく教えるかについてかなり指導を受けるけど
その得た知識をどう使うかとか、何を考えるか問う時間があまりなく、生徒もそこを評価されていないなということでした。
教わったことを定着させる能力(記憶力など)には長けてないけど、ひとと違う視点だったり、興味深いアイデアを生み出せる生徒が埋もれてしまう現状にあると思います。
社会の形成者としての素養をはぐくみ、社会に貢献できる人材の育成が教育の目的なら、暗記合戦の勝者が評価されるシステムってどうなのかな…
未来を担う子どもたちが、俺の二の舞になってほしくないな
と考える、ニート生活3週目の午後でした。
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