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超天変地異みたいな狂騒にも慣れてこんな日常を平和と見間違う?

超天変地異みたいな狂騒にも慣れて
こんな日常を平和と見間違う


アニメの血界戦線のエンディング主題歌「シュガーソングとビターステップ」の歌い出し。非日常な日常をポップに彩るような歌になっているのだ。血界戦線がどんな物語なのか一度も触れたことがないので全然知りませんが。

この歌い出し、まさに今の私たちの状況ではありませんか。
顔の半分と外出の自由を奪われたあの日から私たちの生活は一変した。
あるものは嘆きあるものは喜び、この状況に打ちのめされるものも、この状況を逆に使い生き残るものも、みんな今までと全く環境は変わってしまったはず。

超天変地異みたいなことが起きて毎日が狂騒で非日常な始まりから1年近く経った今、それらがもはや日常に成り下がっていた。
毎日増えたり減ったりする味気のない数字になんの感情も抱くことがなくなったのはいつからだろうか。
どんな状況も慣れてしまえば麻痺してしまい平和と見違ってしまうものか。

こうしてる間にも次々と好きだったお店は二度と開かなくなってしまうかもしれないし、好きだった人と二度と会えなくなってしまうかもしれないし、自分の味覚と嗅覚が消え去ってそのまま命というものをうっかり落としてしまうかもしれない。
これを平和だと錯覚してしまいそうになる人間の適応力は時に恐ろしいものと化けることを、ゆめゆめ忘れることなかれ。わたしも、みんなも。

超天変地異みたいな狂騒の影響は変わらないものより変わりゆくものの方が多いほどに強い。

仕事も行事も学問も少しずつ全てが国際電子情報網で事足りるようになり、全国各地にいる人々の距離や言動などを電波に乗せる。他人と現実で対面できなくても国際電子情報網を通して顔合わせることができる。人々の距離が前より近くなったのか遠くなったのか全く分からないね。

ご飯事情も変わっていた。お店の味を自宅で楽しめる機会が増えている。おかげさまで街に自転車配達者をよく見かけるようになった。

「つらい風邪でも休めない」とかいう日本の悪しき風習をたった一言で表して人々を洗脳していく言葉たちも忽然と姿を消した。これに関しては好ましい傾向ではないかとわたしは思う。
「過労死」がそのまま「Karoshi」として英語になってしまう程に「休む」を知らないこの環境に疑問を投げかけるきっかけになったのではないかと思う。

これもどれも全部、超天変地異みたいな狂騒が引き起こした二次災害。逆に言えば狂騒が起きなかったら無かった現象かもしれないとも言える。
そう考えれば起きていただいた方がよかったと言ってしまいそうになるが、狂騒で消えたもののことも忘れてはいけない。忘れてはいけないのだ。

戦争が起きたから経済が成長するかのように狂騒で何かが成長する。

痛みを知らないと優しい人にはなれないというのと同じように。

毒は薬にもなれるし、薬は毒にもなれる。

何かの犠牲の上で、わたしは生かされている。

本当にこれは忘れてはいけないんだな、といつも思う。
しかし思うだけで自分が周りに対して何か変えていくというほど強い人間でもない。
だから忘れないようにすることしかできないんだな。

こんな日常を平和と見違えないように、生きていく。
生きていくしかできないんだな。

って改めて思いました。

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