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たわいもない話 #1

私は数学が苦手だ。
嫌いなわけじゃない。むしろ数字にまつわる本を読んだり、例えばフィボナッチの話なんかとても面白い。
ただ、とにかく計算や数を勘定することが億劫で不得手で、当然テストなんかいつも散散だった。
かけ算・わり算まではなんとか理解できたが、微分積分とか、証明とか、もう未知の言語を聞いている様だった。
そんな私が、子供の頃からずっと思っていることがある。それは、

「1という数字以外の数は全部例え話じゃないか、ニックネームみたいなもんだ」と。

この考え方だけは、今も正しいんじゃないかと思っている。
数学が全くできないのに、だ。
はっきりいって馬鹿なのかもしれないし、たぶん馬鹿だ。
しかし馬鹿も数十年やり続ければ、それは一角の馬鹿で、そこには一抹の真理が潜んでいるかもしれない。
その強引な理屈で今、馬鹿はまさに、ルビコン川を渡ろうとしている。
ああ、友よ、止めてくれるな。
私は決断したのだ。
「天は自ら助くる者を助く」
ならば私はこう言おう。
天は自らを信ずる者を助く、と。
シュタイナー教育で有名な、ルドルフ・シュタイナーは、
子供が自我に目覚めることを「ルビコン川を渡る」と表したらしい。
ほんとうかどうか、私には分からないが、なぜ1という数字以外が例え話だと思うのか、それを説明しよう。私の理屈はこうだ。

例えば目の前に、リンゴが三つあったとしよう。
しかし厳密には、一つのリンゴが三つあるのだ。
お分りいただけるだろうか。実際には、
「一つのリンゴと、一つのリンゴと、一つのリンゴ」が目の前にあるのだ。
だがそれをいちいち、
「一つのリンゴと、一つのリンゴと、一つのリンゴがある」
と表現していたのでは不便なので、
「一つのリンゴと、一つのリンゴがあったら、それは、”二つのリンゴ”と呼ぶことにしよう」
という発想が生まれ、
そうして、『2』という数字(概念)が、架空の存在であって実際は存在はしないのだが、便宜上、創出されたのだろう、と私は想像する。
だからあくまでも、この世に存在する数は、『1』ただそれのみであり、他の数字は全て、『1の別名』、あるいは、便宜上の通り名に過ぎない。
思い出して欲しい。
私は数学が全くできないのだ。
私は何を根拠に、こんなことを言っているのだろうか。
馬鹿は、自分が馬鹿であることを認識できない。
そして重要なことは、
夜明け前が一番暗い、ということだ。
そう、それは皆が知ってる事実だ。
問題はそこ。
事実か現実かだ。


友よ、君は太陽が昇るのを見たことがあるだろうか。
あるいは、夕日が沈んでいくのを、眺めたことはあるだろうか。
私は一度もない
その様な光景を見たことはないし、今後も見ることはないだろう。
君は、何を言っているのか、と言うかもしれない。
空を指差して、現実に太陽は上っているじゃないか、と。
確かにその通りだ。
友よ、君は間違っていない。
確かに君は、現実の話をしている。
だが私は、事実を話している。
太陽は昇ったり沈んだりしない。
地球が回っているから、地球上にいる我々からは、その様に見えるだけなのだ。
友よ、親愛なる友よ。
どうかこれを、屁理屈だと言わないでおくれ。
何故ならば、これはとても大切なことなのだから。

ガリレオが「地動説」を唱えて裁判にかけられたのは、人々が、自分の認識している現実の方を重視しすぎたことが、原因の一つだ。
同じ理由で、裁判どころかジョルダーノは、火刑に処されてしまったではないか。
ガリレオもジョルダーノも、事実を述べたのだ。
地球は回っている、と。
だが人々は、自らの信じる現実から、頑として動かなかった。
当時信じられ、常識とされていた、地球を中心に宇宙が運行している、という、人々が慣れ親しんだ「天動説」という現実から、視点を変えられなかった。
新しく提示された事実に対して、自己防衛的な認識で対応することしかできなかったのだ。
だから友よ、我が愛する友よ、
『事実か現実か』
これは大きな問題だ。人類にとって、非常に大切なトピックだ。
あなたの認識が、どこかで誰かを、死に追いやろうとしているかもしれないのだから。
あなたに罪は無い。もちろんそうだ。
「罪」という概念もまた、人が作り出した幻想であり、存在すると信じているに過ぎない現実なのだから。
実際には「罪」ではなく、「判断」が存在するだけだ。
いずれにせよ、だから当時の人々が、足元にある、平らで固い地面を見て、
自分が「回転する球体の上に立っている」とは、思えなかったとしても、
その気持ちは想像できるし、その認識において、当時の人々に悪意があったとは思えない。
だが、自分が実際に体験し、こうだと感じている「現実」を信じることは、心地よいことだし、簡単なことだ。
そこには、なんの個人的リスクも生じない。
それに対し「事実」は、「自分がどう思いたいか」とは関係ないし、
実際に、歴史上これまでに何度も、事実が解明され、人々がそれを受け入れた時に、人類は大きく飛躍している。


話は少し逸れたが、私の提唱する「1という数字以外は全部例え話」理論は、事実なのか現実なのか。まあそもそも、理論と呼べるほどのものでもないが。
もしかしたら、大学で勉強している方や、数学者や専門家の方々からすれば、簡単な話で、解明済みの話なのかもしれないし、そもそもこれは、数学の範囲の話ではないのかもしれない。。。
残念ながら私の周りに、数学者の方や専門家の方はいらっしゃらないので、もはや私の拙い知識と想像力では、ここら辺が限界だろうか。
真相は分からない。
だがまた、分からないということはおもしろい

さて、これをお読みになった方は、どう思われるだろうか。

ここに書かれたことは全て、無知な私が、なんとなく思っているだけの、ただの独り言であり、数ヶ月、あるいは数年後には、考えを異にしているかもしれない。
だがどこかでやはり、私はこの「1という数字以外は全部例え話」という理論が、正しいような気がしている。
しかもそれは、ほとんど確信に近い。
いや、それどころか私は、「1という数字以外は全部例え話」という、
画期的で、数学史上、いや人類史上、かつて誰も言及することのなかったかもしれない、いまだかつて掘り下げられていない大きな鉱脈の発見により、
数字は神の言語である、という、どこかで聞いたことのあるような文言に、導かれるような形で、ピタゴラスやフィボナッチといった人類史上、類まれな偉人の名跡を、知らず識らずの内に、継いでしまったのかもしれない。
だから、もしかすると私は、自分でも気づかないうちに、この世界の隠された、偉大な真理、万物の理に触れようと、今まさにしているのかもしれないのだ。。。
忘れないで欲しい。
数学が全くできないのに、だ。


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たわいもない筆者のたわいもない話に付き合ってくれてありがとう。

この「1という数字以外は全部例え話」理論は、
お金の仕組みとも似ている部分がある気がするのだが、、、
その話はまたの機会に。

それでは、また次回があるか分かりませんが、#2でお会いしましょう。


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