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[詩] 声

テレビを突然消したものだから茶の間は混乱した。今夜、皆で歌番組を見ていると、爺の左手が急に電源を切ったのだ。姉や母や婆が〈いいところなのに〉と口々に小声を尖らせる。何が我慢できなかったのか、爺はもう土間に降りようとしている。〈点けてもいい?〉と中学生の姉。もう少し待ちなさい、と父。〈戦争から戻ってかれこれ三十年にはなるのにねえ〉蜜柑を取ろうとしていつも通りに婆が尻をあげる。女の声高い歌謡曲がつっと消えた茶の間では、皆の動きが鈍い。誰かがゆっくりと煎餅をかじった。爺は裏庭の方へ回ったようで、飼い犬がしきりに尾を振る気配がする。〈夜の散歩は気をつけてくださいよ〉婆の煙たそうな声。〈あんたも付いて行ってきたら?〉とこちらを見る。〈それがいいわ〉と言う母の声は、また点けたテレビの演歌にほとんど掻き消された。

街灯をたどるように走って大急ぎで追う。かなり先で見つけた犬と爺は、連れるでも連れられるでもなく歩いていた。犬も爺には心をひらいているから、急な夜の散歩にも行儀よく付き従う。すっかり暗くなった通りは人気がなく、昼間とはまったく別の道に見える。犬に気を取られがちなせいか、爺とは話さなくても気づまりではない。でも、次第に明かりがまばらになってくると心細くなって、何を話そうかと考え始めた。爺はビルマの戦場で何度も危ない目に遭ったらしいと聞かされてきたから、そのことには触れないつもりだった。少し考えてからこう訊いてみた。
「大きな声が嫌いなの?」
尋ねた声が辺りに消えてしまうと、暗がりがやや濃くなった。犬が止まって振り返る。いいや、大きな声なら戦場でいくらでも耳にしたが・・・女の声はしなかった、と。闇に塗りつぶされて立ち尽している老人は、どこを向いているのか分からない。近寄ってきた犬をしばらく撫でてやり過ごす。女の大声はかなわん、斬られるときの声に聞こえるんじゃ。いよいよ話に迷ってきたので犬を抱き寄せる。途切れながらも、話は続いてゆく。

腎臓の悪い女でな。片方がだめになったんで切り取るしかなかったんだが、この女、運悪く麻酔が効かん。理由は分からんがとにかく効かん。担ぎ込まれた先の医者が元軍医とかで、麻酔なんかなくてもきものひとつくらいなあに大したことはない、と請け合った。まだ荒っぽい時代だったし、それより他にやりようもない。ただ、しっかり押さえておけ、女でもえらい力で暴れるからな、と恐い目で言いつけてすぐ切り始めた。病女やまひをんなの悲鳴。その細い腕や肩からこんなにも力が出るのか、と驚いた。男三人が力の限り押さえ込む。足を縛りあげる。生身の女の脇腹に大穴を開けて内臓を切り取るのは、死んだ魚を捌くのとはわけが違うからな。
逆立つ髪、鋭く尖った歯、臓腑はらわたの覗く大きな口。赤い目玉の飛び出した女の絶叫。
〈あんた、殺して、殺してえ〉と、わしに何度も言うてな。粋筋の華奢な女だったが、もうこの世の人ではない形相だった。女はわしの腕を掴んで爪を立てた、とても強い力でな。爪が剥がれても指の骨を突き立てて、わしの利き腕を裂くように引っ掻いた。あいつの脇腹とわしの腕は、二人の血脂ちあぶらでべっとりとしていた。
わしの耳には女の声が残ってな。それが女の本当の声なのか、もうよう分からんで、押さえつけた細い骨にしがみつきつづけたんじゃ。

退屈した犬が鼻をならした。ふふ、と爺は笑って、さあ帰ろうか、と言った。大きくきれいな左腕で手を繋いでくれた。大股でゆく下駄の音。それぞれの時間を歩いて夜道を戻る。ぼんやりと門灯が見えてきたとき、ふと気がついた。爺は、裂け傷の利き腕も何もかもビルマの密林に置いてきたのだと。

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