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[詩] 筆と石鹸

大きな赤い屋根のうちに先生は住んでいた。一階の扉が大きく開くアトリエで、古代ギリシャ人みたいな髪と髭をしていつもひとり絵を描いていた。

〈見たままに描くんだ〉と、教えた。なめらかに筆を動かして艶のある色を塗った。太めの筆の少し上をつまむように握ってパレットで色をつくると、筆の先から色彩がひとりでに流れでてゆく。〈目に入るけしきに空白はないだろう。だからどの色も大切にしてキャンバスを埋めてゆくんだ〉と、一色一色を置くように絵を拓いてゆくのを見せた。その教えのとおり〈見たまま〉に、自分のお気に入りの青で塗ってみる、その日は雲などなかったから。
三時をまわる頃、パートナーとかいう七宝焼の作家さんがお茶とお菓子を運んできてくれる。週末ここで絵を習う子どもたちは、固めのクッキーとミルク紅茶で二人を囲む。いつも色彩の話を聞いた。旅先で見た壁の色や水の色、複雑な模様の織物のこと。見たことのない人々や建物がそれぞれの色で次々と目の前に立ちあらわれて、心がふわふわした。
〈来週は裏山へ写生に出かけよう。まだ桜も残っているだろうし。水筒とスケッチ・ブックを持っておいで。絵の道具とサンドイッチはこっちで用意するから〉
太くよく通る声で先生は宣言すると、皆んな歓声をあげた。七宝焼きさんはまた、ひとりひとりにお茶を注ぎ足してくれた。
その日の分を描き上げてしまうと、いつものように画材を片づける。その間も写生会のことばかり考えていた。〈絵の具が乾かないうちに筆を石鹸でよく洗えよ〉と、いつもの声が向こうから聞こえてきた。

でも、写生会はなかった。次の週末も、そのまた次も。
七宝焼きさんから短い手紙が母に来たようだったが、そのまま何事も起こらず、静かになってしまった。
そして、季節も移っていった。

Tシャツのままふらっとアトリエに来てみると、木炭が散乱していた。描き損じた木炭の線を拭きとった食パンの白い中身も、すっかり黒ずんで乱雑に散らかっている。そして、どこか饐えた臭いがした。埃っぽい画室の日蔭に、先生はいた。
〈絵のつづきを描いてもいいですか〉
ポリポリと何かを砕く乾いた音がしている。二つ三つ呼吸をおいてから、声がした。
〈あの青い空はいけない。退屈だ。何か描き加えよう〉
画布を前にしばらく考えこんでみた。すると薄汚れた服の絵描きは、木炭で真っ黒になった歯をじゃりじゃりと上下させながら近づいて、背後から腕をのばして来た。嗅いだことのない臭気に身体が縛られる。唾液で練った木炭を大きく太い指にたっぷりのせて、青空にこすりつけた。〈星の形もいいかもなぁ〉と、笑うように口元を緩めると黒いよだれが垂れ落ちた。それに構わず、じゃりじゃりと木炭を噛みつづけている。
〈色は要らない。心のままに描こう〉
奥の画室へゆき〈来てごらん〉と手招きする。入ったことのないその部屋には、大きな画布が何枚も立てかけてあった。
〈心のままに描くのさ。黒くはっきりとね〉
そう言って画面をこちらに向けた。
《いいんだね》
《いいんだよ》
黒く緻密に縁取られた二列の文字が、真っ白な画布の真ん中に納まっていた。苦味がじゃりじゃりと腹の底から晶出してくるのは、初めてことだった。心のままに心のままに、と絵描きが音声を発するたびに半開きの口元から黒い泡が洩れては、落ちた。

母の十三回忌で実家に帰ったとき、何かの拍子で赤い屋根のアトリエのことを姉に訊いた。一時こちらに見入ると、お茶を入れる手も止めずに〈忘れたわ〉とだけ、はっきりと口にした。

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