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[詩]息子の太い腕

まだ日も落ち切らない夕方。
いつものパブの薄暗い店内にはもう一人二人の客がいた。機嫌などと言うものはとうに忘れてしまった店主が、パイント・グラスに視線をむけて〈いつものですね〉と一言も発せず訊いてきた。
大した仕事のある身の上でもないが、その日のことなどを思いだしながら、晩飯前にここへ寄って一人エールをぐずぐずやるのが習いなのだ。
娘は去年遠くへ嫁いだのよ、と女房だったのがこの前言って寄越した。そこはとても辺鄙な土地。そんなところで子供が産めるのか心配だわ、と独り言のようにこぼしてもいた。そうだなぁ、などと答えたような気もする。
イングランド・プレミア・リーグの試合の古い録画を見るともなく眺めながら、あいつはどんな名前をつけるつもりなんだろう、と思ったりもした。どうやらコーナー・キックになりそうだ。

奥の方で若いのが呑んでいた。スポーツ・マンらしい骨太の男で、頻りにスマホをいじって誰かとコミュニケーションしている。この薄暗い店からどこの誰とやり取りしているのか。男の指は素速く動いていて対話はどんどん進んでいるようだった。パイント・グラスからぐいと一口呑んではいじり、また一口やっては考えたり宙に目をやったりしつつも、とても熱心に取り組んでいる。大方、女房になるかも知れない人と今や先のことでやり取りをしているのだろう。
三十数年も前、絶望的に悠長でアナログな道具に頼って似たようなことをしていた。どういうわけか今、そんな記憶が灯って恥ずかしさが滲みだす。
残りを呑み干してしまうと訊いてきた。
〈そのエールはどんな感じですか?〉
空のグラスを握る大きな手と太い腕。いくらでも呑めそうな分厚い胸。そのエールの少し雑なところが気に入っているのに、言葉がうまく出てこなかった。ちらりと店主に目をやると、新しく出したグラスをチーンと弾いて目で薦めた。と、大きな手の親指をぐいと立てて応じた。
職人技で盛られたクリーミーな泡のグラスを受け取ると、一気に半分ほどを呑み、はぁと大きく息をついて
〈うまい〉
とストレートに言った。分かりやすそうな太い腕は続けて呑んだ。しかし、その後は二人とも少し離れたところに掛けたまま、視線も会話もまじわることはなかった。それぞれがそれぞれのままだった。

先に店を出たのは太い腕。出口で誰にともなく酒の礼を口にしたときの表情は、幾分明るく見えた。入れ替わりに外国語の連中が入って来たが、あの太い腕のいる暮らしに慣れるには時間が要るかも知れないな、と身の周りの女たちの顔を思い浮かべながら、どういうわけかそう思った。
〈さて、今夜は原稿の整理でもしようか〉とそこそこ決心がついて、こちらはこちらの家へ帰ることにした。

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