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父と飛騨とブラジルのこと

もう6月も中旬だ!2020年、半分きたなんで早すぎる!

唐突ですが私にとって大事な節目なので初note書きます。

唐突って言っておきながら、もう本当は、半年以上も前から書こう書こうと思っていたんだけど、何度も手が止まってしまって気が付いたらこんな梅雨の時期になってしまった。

なるべくまとめるように注意しつつ、でもせっかくだから気持ちを整理しながら自由に書こうと思います。

◎8年ぶりの飛騨

高校卒業から上京して(住んでたのは神奈川ですがかっこいいので上京で)就職もそのまま東京でして、地元を離れて約8年。昨年の年末に飛騨に戻ってきた。

戻ってきた理由の1つは結婚を見据えて付き合っている彼が住んでいるブラジルに来年移る予定だから。

地元の事や家業のことを何も知らずに田舎を出たい!都会に行きたい!って一心で飛び出たので、日本を離れるのなら、その前にちゃんと生まれ故郷を知ってからにしたいと思って戻ってきた。

実家は旅館をやっていて、まだまだ名ばかりだけどそこで若女将をしながら、興味のある仕事や企画をいくつかしながら過ごしている。(この辺りはちょこっと後述)

いくら田舎の小さな旅館といえどもコロナの打撃は財務面でも受けたし、やろうと思っていたたくさんのあれこれができなくなった。

それでも私の気持ちは1年前の今頃とは比べ物にならないほど穏やかで、あぁ今日も幸せな1日だったなぁって思いながら眠る日々を過ごしている。

◎1年前のこと

去年の4月下旬、父が倒れた。

一時はもしかしたら手術ができて回復するかもしれないって希望が見えたけど、手術に耐えられる体には回復せず、倒れてから結局一度も意識が戻ることはないまま6月10日に息を引き取った。

不思議な感覚だった。

CCUに入院中、父の心電図は何度も0になっては頑張ってまた動きだして数値が上がって、その繰り返しを見てたから絶対今度も大丈夫なんじゃないかって思ってた。

よく見るドラマなんかの数字が0になったらピーーーー。って現実はそんな感じではなかった。

だから、お医者さんが最後の一言を言っても全然信じれなくて、どこか他人事のような気持ちだった。

だけど空っぽな感情なりにぼんやり鈍い悲しみと喪失感が父を見る母の姿を見て流れ込んできた。

大学病院から家までは車で約1時間。

母がどうしても父が好きだったベルファイヤを運転して一緒に家に帰りたいって先生にお願いして、親子3人で家まで帰った。

こんなことってあるんだろうか、こんなに悲しいことってあるんだろうかってどこにぶつけていいか分からない濁った感情が段々と硬くなって自分の中に広がっていくような感覚。

なんでよ!母と私をもう残していくの?そんなことしていいの?

私の結婚式出んくていいの?孫抱っこしんくていいの?エルシオにも会ってないよ!彼のこと嫌いなままでいいの?

私この秋実家に帰ってくるんやよ!8年ぶりに一緒に住めるんやよ!これまでできんかったこととか、行けんかったとこ一緒にいけるのに死んでまっていいの?そんなんダメやろ!!

思いつく限りの父を引き止める理由が涙と一緒にとにかく出てきた。

父を連れて帰って来て、親戚が集まって、お葬式などが一通り終わって。その辺りの記憶は断片的であんまり覚えていないことにこのnoteを書いてて気が付いた。

この時期のことを振り返る時、以前働いていたSHEでの出来事も思い出される。
(女性向けキャリア&ライフコーチングスクール「SHElikes(シーライクス)」を運営するSHE株式会社)

父が倒れる直前、私はSHEがファイナリストとして選ばれたカルティエ主催の海外アワードのプロジェクトを担当していた。

エントリーから始まって約10ヶ月に及ぶプロジェクト。満身創痍の状態でとにかく人生で一番必死だった。辛すぎて何度も逃げ出したいと思ったし最後の3ヶ月は通常業務終わった後に毎晩3-4時くらいまでやっても終わりが見えずプレッシャーと疲労で結構あれは極限状態だった。

過酷で膨大な課題と準備に追われ泣きながらなんとか食らいついてたような日々だったけど、最後サンフランシスコで社長がプレゼンする晴れ舞台を何としてもこの目で見届けたい、どうか成功しますようにってとにかく祈りに祈ってた。明治神宮に参拝にも行って、出国前夜も深夜まで入念に準備して出国当日になった。

この日、私は成田のチェックインカウンターに着いて、そこで自分の航空チケットだけがキャンセルになってて取れていないことが分かった。行けなかった。

神様を恨んだ。そんなこと思ってもしょうがないけどどうしていいか分からなかった。

父が倒れたのはその2日後。

あの時サンフランシスコに行ってたら、と思うとぞっとした。現地では各国のファイナリスト達との最終ワークで通訳の仕事があり、仮に帰ってこれたとしても帰りの飛行機までの間、集中して業務ができる状態ではなかったと思う。

自分に都合のいい解釈なのは分かってるけど、それでも神様がサンフランシスコ行くなって止めてくれたような気がした。

父が倒れた連絡はオフィスにいた時に届いた。急いで新幹線を予約して東京から富山の病院に向かった。

23時過ぎに病院に着いた。

救急車で運ばれる途中から意識がなかったらしく、私は結局何も話せないままになってしまった。

それでも母と病室を訪れる度、何か反応のきっかけになればという気持ちと、今まで話せなかった分ただ話してたいって気持ちの両方があって、とにかくいっぱい話しかけてた。

たまには「本当は聞こえとるのにパパ狸寝入りしとるな」ってからかったりと私が実家を離れてからあんなに長い時間を家族と過ごしたのは初めてだった。

父がいなくなってしまうかもって不安と恐怖は常にあったし、お見舞いに行っても意識がないのは分かってたけど、それでも「病院にパパの顔見にいくの楽しかったねー!」って今でも、母とあの時の日々のことはよく話す。

聞こえていたかは分からないけど、「パパとお母さんの子供に生まれることができて本当に良かったよ、ありがとうね」って伝えることもできた。本当は結婚式で言いたかった。結婚式でも言えばいいか。

自分で変わったなと思うのは、伝えたいと思ったことは以前よりも素直に言葉にするようになったこと。

それと、また今度でいいか、の今度が無いかもしれないことを意識して判断する回数が増えたこと。

回数が増えたというより、判断対象になる重要度の基準が下がって、以前は気にしてなかったような小さなことでも今度でいいかって思って大丈夫?ってフックがかかるようになった感覚かもしれない。

救急車で病院に運ばれている時、父に付き添っていた母から電話があった。その時はまだ意識はあって話すこともできた状態だった。

母から話す?って言われた時、今声聞いたら泣きそうだと思って、断った。

かなり動揺していたが、これが最後になるはずなんて無いと能天気な私はあとで病院ついてからでいいやと思ってた。この時電話を断ったことを本当に後悔している。

無くしてから気づいても遅いって頭で分かってはいるけど、やっぱり身を以て体感しないと意識を変えたり行動することは難しい。

それでも、次のものを無くす前に何かしら大事にできることが大きくなっていればいいんじゃないかなと、そうやって学んでいけばいいのかもと思うようになった。

◎父の死から1年

今現在、母と叔母との3人暮らし。

1年経ってやっと大分気持ちの整理がついた。やっぱり父のいなくなった悲しみと倒れる前にできることがあったんじゃないかって後悔、あとは本当に死んでまったの?って不思議な気持ちにはよく陥る。

それでもありがたいことに家が旅館ということもあり、お客さんやお手伝いさん、近所の人が来てくれたりとで毎日やんややんや楽しく過ごしている。

何より母と叔母は本当に強い、みなべの女は逞しいな!とすごく感じるし愛のある家だと我ながら思う。

1周忌はコロナの影響で親戚が集まっての法事ができなかったので、ビデオ電話を繋いでリモート法事をしてみたり

リモート法事

自粛期間中にダンスにハマり、AKBのフォーチュンクッキーを毎日踊っていたので、命日には父の写真と一緒に踊ったり。

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そしてもう1つありがたいのは地球の反対ブラジルから支えてくれる彼の存在。

付き合って5年。ずっと日本-ブラジルの遠距離をしてるけど会えない分を差し引いても余るくらい何度も支えられた。(計算したら会った時間は5年の内の5%だった笑)

父の容態がもう危ないことを連絡した時、私や家族を支えるためにとにかくすぐに日本に来れるよう超特急でチケット手配やビザ申請をしてくれた。

ビザ申請の関係等で父が生きている間には間に合わなかったけど、仏壇の前に座って手を合わせてくれた。

私のことはもちろん、母や叔母のことも家族として大事に思ってくれて支えてくれている。

昨年の年末にブラジルへ行ったとき、父の遺骨も連れていった。

いつかブラジルに連れて行きたいと思ってて、それは叶わなかったけど、父は海で泳ぐのが好きだったから「これがブラジルの海だよーーっ泳げるよーーっ」て言いながらブラジルの海に撒いた。

パパとブラジル

彼について父には以前話をしていたけど、その時は露骨に不機嫌になってて(笑)

頑固で仏頂面な父だったけど会ったらなんだかんだ仲良くなってたよね!って母とよく話す。

◎今やってること/今後のこと

コロナの影響でもしかしたら予定が変わるかもしれないけど、今の所当初の予定通り来年の1月にブラジルに行く。将来的には飛騨に帰ってくるのでブラジルに永住では無いけど一旦、日本にいるのはあと半年。

こっちにいる間、旅館のことや飛騨のこと、日本にいる間にできることを色々したくて手探りなことも多いけど、得意なことを伸ばして楽しみながら貢献できるようトライ&エラーして働いて遊んで家族との時間、飛騨での時間を楽しんでる。

▶︎実家の旅館
 通常業務、IT関連整備、webサイト作成

▶︎飛騨の酒蔵「渡辺酒造」
 外国人向け酒蔵ツアー

▶︎Rail Mountain Bikeガッタンゴー 
 運営スタッフ

▶︎飛騨のインスタマガジン運用、動画制作

▶︎英語翻訳/通訳/教える関連

▶︎オンライン企画

こんな感じで楽しく充実してるけど、まだまだ旅館のことや地域のこと、クリエイティブなことなど学びたいことや経験したいこと山積みなので面白そうなイベントのお誘いやご一緒できるお仕事あれば小さなことでもぜひご連絡もらえたら嬉しいです。ブラジルに行ってる間も飛騨を始め日本と繋がっていたいので。


◎最後に

振り返りの中で、どう感謝してもしきれないのが前職のSHEのみなさんのことなので最後に。

まずSHEへの転職の時から、実家に戻ることとブラジルに行くことは伝えていてそれまでの10ヶ月という期限付きにも関わらず迎えてくれたこと。

サンフランシスコに行けなくなって空港で1人絶望感とパニックで何も考えられないし動けなくなってた私に「SHEのオフィスにとにかく帰っておいで、待ってるから」と言ってくれて。それでやっと動くことができて、オフィスに着いた途端とにかく大泣きしまくり、それにもひたすら側にいてくださって。

その直後、父が倒れたときも「仕事のことは全く気にしないで大丈夫だからお父さんの側にいてあげて。お母さんを支えてあげて」と私を実家に戻らせてくれた。

業務面、精神面共に代表や上司、チームのみなさん本当に支えてもらって。SHEのおかげで最後の数週間を私は父の近くにいることができて、本当に感謝してもしきれない程心の底から感謝しています。

もちろん上記以外に数えきれない恩があるので必ず恩返しできる人間になる。というのが常に傍に置いている1つの原動力なので日々精進。

飛騨でもブラジルでも、また日本に帰ってきたときも胸を張れるよう駆け抜けます。

というわけで、簡単に書くつもりだったのに、勢い任せにえいやと書いたらかかなり長くなった。語っちまった〜とドギマギしてるんですがずっと溜めてた言葉だったので書き出したらすごく軽くなった。のでこのままにしておこうと思います。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました(⇀‸↼‶)

ではまた!!


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