閃光のハサウェイについて思うこと。

風の谷のナウシカでトルメキア王が「失敗は政治の本質だ!」と言い放つシーンがあったかと思うんですけども。政治は行き当たりばったりではなく、より良い社会を作るためだという目的を設定したとして、そこに弁証法という科学的手法(最近流行りの言葉で言うとPDCA)を使って理想に近づこうとするのがマルクスの史的唯物論という考えだと理解していまして。
で、資本家階級は労働者を搾取するのは自然の流れで、そこに不満を持った労働者が団結して資本家を打倒して共産主義化というのが無理筋だったねという一つの社会実験の結果が30年ほど前に得られて。
それを見てスラヴォイ・ジジェクが「いやあ、マルクスの史的唯物論は理論の流れとしては正しいけど、そもそも労働者の団結という将来予測が間違っていたのが問題なので。実は史的唯物論という大きな枠組みの中で社会主義革命の失敗は織り込まれていて、その先があるんだ」と言い出した、と。

これを受けてなのか全然別の力学なのかは知らないけど、たとえば正社員と派遣労働者の分断構造であるとか白人と黒人、婚姻、労働環境、収入。その手の諸々の格差を内包できるコミュニティがほしいんだけど、無宗教だのSNSの発達だの宮台真司の言う島宇宙化の結果どうにもそれが難しそうだ、と。

安倍晋三へのテロルは社会に対して成し得る個人の能力の限界で、おそらく丸山眞男を引っ叩く機会は訪れないんだけど、富野由悠季はどうやらこの状況の発生を予見していたらしいね、というのが閃光のハサウェイ。

その筋の人には有名な逸話かもしれないけど、富野由悠季は民主主義が限界を迎えた結果、たぶんアイドルへの崇拝によって社会は変わるんじゃないかと考えていた、と。その思想自体はたぶんCCAあたりから始まってるんだけど、カリスマとしてのシャアから血筋としてのベラ・ロナを経て「官僚主義と大衆に飲み込まれ」た結果としてインテリ不在のままマリア・ピア・アーモニアが出てくる。それは立場を捨てたディアナ・ソレルと摂政としてのギム・ギンガナムってとこに行き着くんだけど、閃光のハサウェイ執筆当時の御大はアイドルには実体は必要なくて偶像だけで成立するんじゃないかと考えていたのではないか、と。神なんてまさにそれなんだけど。むしろ神そのものよりも勝手に信奉者として好き勝手暴れまわる無法者の方が実際的に社会に作用するのではないか、という意味で冒頭のテロルが設定されたんじゃないかなあと思いました。

だもんで、3部作の1個めで、2個め以降公開の予定立ってないのでわかんないけど。原作通り行くなら処刑までの筋道は立ってるので、「マフティーはお前だ」という意味付けを視聴者に思わせるような演出をかましてみると面白いんじゃないかなあと思いました。

一応劇中の内容で言うと、良い演出だなーと思ったのは空襲の最中にマフティーとギギが一緒に逃げるシーン。背広という社会の肩書を脱いでシャツ一枚の青年ハサウェイと、中身がまるっきり子供で純真すぎるんだけど、それをカバーする為に背広着せられたギギが一緒に逃げて見殺しに出来ないとするシーン。「ああ、そういう意味付けぐらいは持たせられるんだ」って関心はしたけど別に面白いかっていうとなあ。

ちょっと古い話だけど、紅の豚で新しい飛行機出来て裏のドブ川からちょうど離水して、下からのアングルで飛び立つだけの2秒ぐらいのカットがあるんですけど、毎回あそこで泣きます。なんでだろうね。




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