トーキョー・コンティニュー

まずもって,塩見きらさんソロEP発売おめでとうございます.ソロ1stアルバムを飾るにふさわしい非常に素敵なアルバムでした.



私は黄舁夫でこそあれ,塩見きらさんの綴る言葉には強い興味を持っていた.
塩見すきすき倶楽部なるものにひっそりと入部したのもそれが全てであった.

彼女の言葉を安直に塩見文学と名づけるならば,
抽象的な叙情こそがその真髄なのだと思う.
"抽象的な叙情"なんて言葉が存在するのかは判らない.
彼女の発するメランコリーに秘められた曖昧さが私から意味不明な言葉を引き出したのかもしれない.

"曖昧な輪郭はファンタジーを孕む"
私の好きな(神宿とは無関係な)リリックだが,つまりはそういうことだ.



そんなことを胸に秘めつつ,こっそりと塩見文学としてのアルバムを楽しみにしていた.
本noteに於いて歌詞を考察したり深読みしたり(邪推したり)しようかなどとも目論んでいた.

リリース当日.諦めるという決断に至った.
23と半年の人生そして4年目のアイドル人生.
恐らくそれをふんだんに詰め込んだであろうアルバムに,もといそれ程までに重い言葉の数々に,土足でずけずけと立ち入る勇気がなかった.

歌詞を深く理解するには,彼女と共有する文脈が足りなすぎるのである.
いつかのリリースイベントでは本アルバムの紹介・説明が施されたというが,残念ながら私は不参加であるため,やはり考察班としての活躍はお預けとなった.

というわけでエアフォースワンを脱いで,私が現在できる最大限の評価をしようと思う.


塩見文学の体系的解釈,及びそれが生み出す"曖昧さ"について語りたい.
Apple musicでアルバムを参照すると,"スパイラる"に人気を示す星マークが点灯しているということで,こちらを題材にしよう.


ふわっと消えて全部忘れてスパイラる ここじゃないって気持ち

遠く空の彼方までスパイラる この瞬間だけは

飛ぶように全部忘れてスパイラる ホンネじゃ言えないことも

遠く空のはじまりまでスパイラる 込み上げてる一人の夜

題名"スパイラる"をある種合いの手として,その前後に倒置法気味に文を置いているのだろう,というのが直感的な理解だった.

この理解の元で変換するならば,


"ここじゃないって気持ち ふわっと消えて全部忘れて
この瞬間だけは 遠く空の彼方まで
ホンネじゃ言えないことも 飛ぶように全部忘れて
込み上げてる一人の夜 遠く空のはじまりまで"


"スパイラる"という言葉で文構造に風穴を開け,さらに倒置を用いることで,案外本質的である文に曖昧さをもたらしている.
リリシストとしての塩見きらさんにただ感嘆した.

ついでにこれを跳躍倒置法と勝手に命名したいと思う.今後この言葉を用いる場合本ブログ宛に金銭を振り込まれんことを求める.


第二の理解は,連続する4行に於いて"スパイラる"前後をそれぞれ一連の詩として解釈することだった.


即ち,
"ふわっと消えて全部忘れて遠く空の彼方まで
飛ぶように全部忘れて遠く空のはじまりまで

ここじゃないって気持ちこの瞬間だけは,
ホンネじゃ言えないことも込み上げてる一人の夜"


"スパイラる"前後での抽象・具体の差(,というか前部分の脈絡のなさ)に対する違和感がこの理解への出発だった.


第三の理解としては,"スパイラる=スパイラルの動詞化"である.まあ恐らくそうなのであろう.
ほとんどの人が気づいていそうだが,私の凝り固まった頭でこれを導くには少々時間がかかった.

スパイラル即ち螺旋の動詞化ということで,"スパイラる"は"止めどなくグルグルと回り続ける"と言い換えられよう.
堂々巡りに陥った精神状態としての"スパイラる"を中心に歌詞を推察できる.

そもそもスパイラルを動詞化するという発想そのものがずば抜けている.
正直言って塩見きらさんのクリエイティビティというか,文学的素養の底が知れない.




ここまで書いて2日置いた.



冒頭ではアルバムの本質的理解への挑戦を自制した.
少々作詞者に対して失礼な言い方かも知れないが,文脈という大きな壁があるからだった.

やはりそれは撤回したいと思う.

曖昧さそれこそがウィットであるならば,単に文の読み方だけで幾通りもの解釈が可能なこの曲(もとい塩見きらさんの詩)には,
純然たる文学としての価値を強く感じる.

曖昧さが産み出すものは"多様な解釈"他ならない.
そこには受け手各人の人生や経験が内包されているのであって,むしろ彼女自身望むことはそこにあるのだろうとも思う.
"文脈の共有"を盾にしようとしても結局その不一致すら曖昧さであり,"解釈の違い"という形で文学的価値を高めるのだ.

(さらに言えば"文脈"はその文学のスタートに過ぎず,ゴールではないのだろう.
即ち詩の背景に固執して得られるものは必ずしも詩そのものやその答えではない,と言うことである.)


というわけで緑舁夫を中心とした視聴者各位には,言葉の隅々まで逃さず自分なりの考察を繰り広げられんことを祈るばかりだ.


私も私なりの解釈を施し、いつか塩見きらさんにぶつけてみたいものである.


呑気に聴くもよし,寝る前物思いに耽りながら聴くもよし,文字に起こしてじっくり眺めるもよし.
そんな良曲・良盤であった.

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