見出し画像

路地裏みたいな綴り

誰かに聞いて欲しいけど、大人数に聞かれたくはない話を書く場所として
このあたりがちょうど良いと判断したので
ここにつらつらと書くことにしました。

本日14時、休職中だった職場の正式な退職が決まりました。
想像していたよりも呆気なく手続きはすすみ、捺印も何の感慨もなく
少しだけ世話になった場所との縁が簡単に切れました。

正直少し肩の荷が降りたような気分にもなりましたが
頭がうまく回らず自分が悲しいのかも良くわからないまま
歩くたびに将来への漠然とした不安は増すばかりで、
家へ戻るまでの間はぼんやりとどう死のうかとか
今自分の取り得る手段の中で一番他人に迷惑をかけない死に方は何かとか
処方された薬の致死量などを調べていましたが

家に着いた頃には現在受給中の傷病手当の継続手続きや要項を
比較的はっきりとした頭で調べ、準備をしていました。
死にたい気持ちがなくなったわけではなくて、
役所への電話や書類の確認をしている間
希死念慮が隣にぼんやりと座っているような心持ちでした。
それだめだったら死のうね、と言われている気持ち。
脅すでも教唆するでもなく、もっと気楽な感じでした。
ハンバーグ屋行きたいけど閉まってたら和食ね、みたいな。

そもそも死にたいという気持ちの根幹には
現在抱えている漠然とした不安からの解放だったり
自分を客観的に見た時の情けなさから逃れたい気持ちだったり
人生に区切りをつけることで良いことも悪いことも
全部おしまいにしてしまえる気楽さみたいなものがある気がします。

だから現在患っている精神疾患がどうとか
現在の経済状況や自分を取り巻く人間関係など
どれが死にたいと思う決め手になっているのか自分でもわかりません。
決め手なんて特になくて、絡まってできた塊が希死念慮です。

そもそも「死にたい」のではなく
どちらかといえば「今のこの場から消えてしまいたい」というのが
今の自分の心情にはしっくりくる表現のようです。

自分を誰も知らない、しがらみや金銭的な負荷なども0の場所で
ほいと投げ出されたら、それはそれで自分にとっての救いになりそうで
つまり死にたいのではなくしがらみや問題から離れたいという気持ちが
今の自分を掻き乱しているような気がします。

でも実際の世界はそう簡単に全てを精算できるような場所ではなく
そしてまた今の自分の状態もそれらに向き合うには脆弱すぎるのです。
何かに手をつけることが難しく億劫になっているかと思えば
何かに執着し続けることで考えることをやめていたりもします。
今こうして誰にあてるでもない文章を書き続けているように、です。

正常な判断能力を失っていると診断された時、
「でもそれは鬱病患者らしく振る舞った自分に対する診断であり
実際は煩わしいことから逃げたいがための自分の意図的な逃げだ」
と感じました。人がどう感じるかを自分の振る舞いで操作できると
思っている節が自分にはある。それは昔から感じてきた。
ただ、仕事を休み、交友関係を絞り、
自分の部屋に篭る時間が長くなるにつれ
今自分が何をしたいのか、何をするべきなのか、何ができるのか
わからなくなっている事にもなんとなく気付いていました。

多分、本当に脳や心の病気にかかっているんでしょう。
自分でそうとは思わないまま、深みにどんどんハマっている。
甘えだと思っていた部分が、そっくりそのまま症状だった。

双極性の鬱。病名がつくことで安心した反面、
こういった精神疾患は完治寛解が簡単に望めるものではなく
治すというよりもうまく付き合っていく方法を模索するという方が
適切な表現に当たるのだろうなと思います。
ただいざ自分がその立場になった時、社会で過ぎる時間の速度がはやすぎて
常に何かのリミットを抱えて治療にあたるには
金銭的にも環境的にも自己との向き合い方的にも
不足しているものが多すぎるのです。
気分が落ち込んだ時に支えになるものが、弱く、少なすぎるのです。

他人からの評価を必要以上に気にしすぎる性質を持った自分は
客観的に見た今の自分の有り様が、誰の目から見ても明らかな
社会不適合者でしかないことも自分を責めてしまう要因の一つに
なっています。

明るく社交的で悩みのなさそうな人間として振る舞い、
また周りからもそれを前提としたコミュニケーションを求められる
そんな人になりたいと思い、可能な限りそう振る舞ってきました。
その状況を作ったのは自分であり、以前は自分の後押しをしてくれた。
しかし今の状況でそうあれるか、そうありたいかとなると話は別で、
今は自分のやりたいように動き、言いたいことを言える環境が欲しい。
それができない自分を作ったのも自分なので、
誰を責めることもできない。こうして再度責任と悪意は内向する。

SNSやアプリの普及と共に、インターネットの匿名性は日々薄れています。
本来は自分の思ったことを好きに書く場所だったSNSも
いつのまにか他人から見た自分を表現する場所になっていて
思ったままのことを書くにはリスクの高い場所になっていました。
では友人たちに個人的に相談や愚痴を聞いてもらうかといえば
それもできないのが自分です。人に嫌われない、嫌な思いをさせないことを
行動原理としてきた自分は、誰かを頼り腹を見せ弱さを相手に渡すことが
とても難しいのです。自分だったら他人の解決し得ない悩みの話を
延々聞かされるのは嫌だから。世界の中にはそう感じる相手がいると
わかってしまった時点でその選択肢は自分の中から消えてしまいます。

自分が相談されれば信頼されているんだという喜びはあるかもしれませんが
ネガティブな思考を押し付けられるのにはストレスを感じてしまう。
だから自分から他人につらい、かなしいと話すことができない。
これは一朝一夕で変えられるようなものではないらしく
今もこうして不特定多数で多くない、誰かに向けて書き連ねています。
誰にも届かないのは嫌で、でも多すぎる人には見せられない
面倒臭い性格ここに極まれりという感じです。厄介この上なし。

結論何が書きたかったのかはよくわかっていません。
自分が思っていたより脆弱で、ずる賢く、でも狡猾に生きられるほど他人をどうでも良いとは思っておらず、その結果誰にもいえず自分の中で何がきっかけになったのかもわからないごちゃまぜの汚い感情を捏ね続けている。
まとめてみるとこんな感じでしょうか。気持ち悪いですね。

それでも書き続けている間に少し頭の整理がつきました。
昔から思ったことを書き連ねていると少し気が楽になる人間でした。
ぼんやりと死にたい気持ちはなくならないし
今後の漠然とした不安は消えないけど
自分にとって何が嫌か、その一端を理解できただけでも
今回これを書いた意味はあったのかも知れないと思う事にします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?