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英語学習記録#09

教材名:Penguin Readers Level4
「Women who changed the world」

Chapter8 Women and flight

 1903年、世界初の飛行機で空を飛んだのがライト兄弟だった。その5年後、1908年には女性初のパイロットが飛行を開始。その一人がアメリア・イアハートだった。彼女はパイロットであり、作家でもあった。彼女は女性で初めての大西洋の単独横断飛行を達成したことでも有名である。

 アメリカのカンザス地方で誕生した彼女が、初めて飛行機を目にしたのは10歳の時のことだった。当時は興味がないどころか、飛行機があまり好きではなかった。それから10年して、彼女は友人と飛行機を見に行った時のことだ。パイロットが彼女たちの方に飛行機を近づけて下ろしていった。アメリアは怖かったが、決して動かなかった。飛行機が立ち去ると彼女は興奮した。「その時はよくわからなかったけど・・・でも、あの小さな赤い飛行機は去り際に私に何かを伝えようとしていたわ。」1920年、パイロットに飛行機に乗せてもらった彼女。彼女の人生は大きく変わった。「2-300フィート地上から離れると、、私は飛んでいると実感したわ。」
 1921年、アメリアは仕事を掛け持ちして、飛行レッスン費1,000ドルを貯めた。それから数年後、彼女は新しい飛行機を購入し、カナリアと名づけた。翌年には、女性で初めての1,400フィートまで飛行し、それから数年の間に多くのことを達成し続けた。1932年、彼女は女性初の大西洋の単独横断飛行を行い、14時間56分で達成した。The fun of itの中で彼女の旅について記されている。彼女は単独飛行を愛していた。1935年、彼女は単独飛行で2,408マイルを達成した(ハワイのホノルル〜カリフォルニアのオークランドまで)。またロスからメキシコも単独飛行で13時間23分で達成。また、途中中断なしでメキシコからニューオークまで単独飛行、14時間19分で達成している。
 これらはアメリアが達成したことのごく一部である。1937年、アメリア40歳の誕生日に彼女はさらに大きな旅の準備をした。女性初の世界飛行である。
 6月1日、アメリアとナビゲータのフレッド・ヌーナンはマイアミを出発し、彼らの29,000マイルの世界旅行を始めた。ニューギニアのラエに到着したのが、6月29日でたった7,000マイルしか飛行できなかった。彼らは次にハウランド島に着陸した。ハウランド島は大西洋のラエから2,556マイル離れた、とても小さな島である。
 7月2日、朝の10時にアメリアとフレッドはハウランドを出発した。空はグレーの雲と雨が降っていた。早朝にアメリアはアメリカ船のイタスカに連絡をした。彼女は曇りの天候であることを伝えた。朝の7:42にイタスカは「私たちは1,000フィートを飛行しています」というメッセージを受信していた。その後、船は応答したが、アメリアの飛行機には届かなかった。朝の8:45にアメリアは最後にラジオに話をした。アメリア・イアハートをもう一度聞いた人は誰もいなかった。彼女とフレッドは行方不明となった。何が彼らに起きたのかも誰も知らなかった。人々はアメリア・イアハートのことを忘れないでしょう。彼女が勇敢で女性のため、フライトのために多くのをことを成し遂げたためである。彼女の最後の飛行の時、ご主人であるジョージ・パットナム宛の手紙の中でも、彼女の勇敢さが窺える。彼女は「私が危険を察知していることを理解してほしい」と書いていた。「私はやりたいからやるのだ。女性も男性と同じく、挑戦すべきだ。」

 アメリア・イアーハートの後も、アメリカ人女性のパイロットが多数誕生した。その一人がメアリー・ウォレス・ファンクこと、ウォリー・ファンクである。彼女は20歳の時にパイロット職に就く。しかし、1960年にNASA勤務のアメリカ人男性のウィリアム・ランドルフ・ラブレスが宇宙飛行プログラムを開始した。当初は7名の白人男性が選抜されたが、ウィリアムは女性にもまた宇宙へ行ってもらうべきだと考えた。彼はソ連が女性宇宙飛行士を欲しがっていることも理解しており、1960年に初の女性宇宙飛行士をアメリカで誕生させたいと考えた。アメリカの女性宇宙飛行士にテストを開始。13名の女性パイロットに参加の誘いがかかり、その一人がウォリーであった。彼女は他の女性たちと同様に多くの難しい試験を受験した。ある試験では、女性たちは補水しながら特別な部屋へ入れられた、そこは無音で何も見えない部屋であった。ファンクはそこに10時間35分滞在した。ジョーン・グレンという月に行った男性よりも彼女は好成績を出した。彼女は見事に試験を通過して宇宙にいく準備が整ったものの、女性たちが最終試験を終える前にプログラムは打ち切りになった。この性差別は何故起きたのか?恐らく、男性が女性が同等または男性を超えることを恐れたからである。
 今日ウォリーは何千時間も飛行と3,000人以上の学生に飛行訓練を教えている。女性プログラムのあと、女性宇宙飛行士は誕生したが、アメリカではなくロシアで誕生した。
 ワレンティナ・テレシコワは女性初の宇宙飛行士である。彼女は400人から選抜されてボストーク6号に1963年6月16日に搭乗した。彼女は単独搭乗した初の女性である。26歳のことだった。
 ワレンティナはモスクワから170マイル離れた村で生まれた。両親は農家を営み、父は第二次世界大戦で亡くしている。ワレンティナは16歳で学校を去り工場で仕事をしながら、夜の勉強を継続していた。また、彼女はパラシュートを使って飛行機からジャンプして飛び出す方法を学んでいた。
 1961年にユーリ・ガガーリンが宇宙へ初めて行った後、ワレンティナは興奮した。彼女は宇宙飛行士のプログラムへ参加。彼女はパイロットではなかったが、彼女の126回のパラシュートジャンプのため、プログラムへ参加することができた。当時、宇宙飛行士は地球が近くなったらパラシュートを使用することになっていた。ワレンティナと他4名の女性は18ヶ月レッスンを受講。5名の女性のうち、宇宙に行ったのはワレンティナだけだった。
 

 アメリカでは1983年、サリー・ライドが初めて宇宙に行くまで女性の宇宙飛行士を派遣することはなかった。今日では、女性が宇宙飛行士になりやすくなっている。



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