そんなのロマネスクじゃない

アルミ製の大きなものを持ちながら都会を歩くのは神経を使う。
しかもトレイのように、薄っぺらくてカンタンに風に煽られてしまい、おまけに古本屋さんでもらうような向こうが透けて見える薄いビニル袋に入れてあるものは尚更だ。

ちょっと気を抜いたすきに、あっちこっちに当たってバイイイインッという轟音を立てる。周りのひとがびくっとし、怪訝そうな目でこちらを見る。
すみません、バイイイン、すみません、バイイイイイン。

そうやって、我が家に新入りのアルミトレイがやってきた。



目白駅前の大きな通りを少し入った、日の当たる道沿い。
ガラガラガラ、と立て付けの悪い扉を開くと、
すうっと胸に古いものたちの匂いが流れ込んでくる。
わあ、と小さく声が出る。
ずっとずっと何年も来たかったところ。
数年前に、渋谷で展示をみてガーーンと衝撃を受けてから、いつか来るんだ、と思っていたところ。


坂田さんは、古いものをあつかう人だ。
世界中のいろんな古いものを集めては、それを売っている。
古物商、と呼ぶんだと思う。

店主だからお店にいるのは当たり前なのだけれど、
勝手に有名人のように思ってしまっていたので、
本物だ・・・と思ってドキドキした。

坂田さんは古いものたちに囲まれて、それがすごくしっくり来ていて、古いものたちも幸せそうに見えた。


私が古いもの好きになったのは、坂田さんが集めたものを見てからだ。
松濤美術館に並んでいた古いものたちの「時間が堆積していく」感じにどうしようもなく圧倒されてしまって、ただただ大きな木製ドアや、そりあがった鉄の釣り針や、インカ文明の頃のリビング(があるかわからないけれど)にしかれていたであろう誰かが編んだ布や、古ぞうきんの束や、くすんだガラス瓶などが、本当に美しくて、ひたすら感動した。
みんなたくさんの時間を重ねてきて、だれかに見られるとも思わずたくさんの時間を重ねてきて、そして今自分の目の前にある。これって想像以上にすごいことなんじゃないのか?このすごさに、もしかしたら気づいちゃいけなかったんじゃないか?くらいにガーーンの連続だった。

一番のガーーンは、封筒だった。
どこかのおじいちゃんがずっと作っていた大量の手作り封筒。処方箋とか、いついつの新聞とか、そういうどうでもよくなった紙を、おじいちゃんはことごとく定型封筒に変えていった。それを誰に見せるわけでもなく、ボケ防止にと思って始めたという。それをデザイナーだったお孫さんが、譲り受ける箪笥に閉まってあったのを偶然見つけ、これは世に出すべきだ、と作品にしたのだそうだ。(ちなみにこれは「おじいちゃんの封筒」という本になっていて、絶版だけどamazonで買える超絶素晴らしい本です)

坂田さんは、おだやかとも熱のこもったとも言えないような中庸な調子でそれを教えてくれた。抑揚がないわけではないけれど、坂田さんの口調には、小麦粉なんかを測る計量器の目盛りの先っぽが震えるような、どちらともすぐに結論をつけない礼儀正しさのようなものがあった。その姿勢は、彼のもつ美学(を直接美学というかたちで聞けたわけではないけれど)についても、彼が嫌いなものについても、同様だった。こういうのは違うと思う。こういうのはハリボテだ。という主張も、すべて怒りではなくしずかな義憤だった。

結局わたしはそのジェントルな店主から、迷いに迷って700円のアルミトレイを買った。本当は鳥よけの音を鳴らす木製の機械とか、編んだ籠とか、よくわからない壁掛けとか、もっと高くて欲しいものはたくさんあったけれど、わたしには700円くらいがちょうど良いと思った。

一緒に積もらせられる時間には、きっと「身の丈」というものがあるのだ。






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