広島細密日記①

思い立って広島へ向かう。なんとなく西に行きたい、海が見たい、と思ってふと浮かんだのが宮島だった。いつかあの赤い鳥居を見てみたいと思っていたのでちょうどよい。そういえば広島には原爆ドームもある。今まで見たことがなかった。ちゃんと見てこよう。

IKEAの分裂するリュック(とても便利)にぽいぽいぽいと荷物を詰め、宮島の近くの残り1室だったホテルを慌ててとって、新幹線に乗り込む。広島まではのぞみに乗って4時間。指定席と自由席を迷って、指定席を買う。もし座れなかったら、という恐怖にお金を払う。(結果、全然空いていて、新幹線初心者であることを思い知る。)待ち時間にアンデルセンでパンと牛乳を買う。一人暮らしを始めた途端、苦手だった牛乳をよく飲むようになった。人体というのは不思議だ。

行きしなに「海辺のカフカ」を読む。舞台を見てから原作に戻っているので知っている話をなぞっていく行為だけれど、それが心地よい。すでにわかっていることを全く別の角度からわかっていくのは楽しい。ちなみに「海辺のカフカ」の主人公のシーンはすべて現在形で終わっていて、そのテンポが旅感(彼の場合は家出だけど)があって気持ちいいので、この旅行記もそれに倣って書くことにする。そういえば彼も四国に向かう。ナカタさんが西へ西へ向かっていくシーンも重なってなんだか面白い。西に行きたいと無意識に思ったのは、関係があるかもしれない。

新幹線は混んでいて窓側の席はとることができない。窓側に座っているおばさんは、iphoneを充電し続けたままずっと画面を見ている。景色を見ないなら変わってほしいなあ。と思うけれど、そういうわけにもいかない。通路側のいいことといえば、トイレに気兼ねなくいけることくらいだ。

広島駅に着く。電車に乗り換え、ホテルのある宮島口へ向かう。「海辺のカフカ」は下巻に入る。ペースがのってきたので読み続けたい気持ちになるが、広島をちっとも見ていないことに気づいてもう本を読むのはやめる。おかげで宮島口と間違えて2つ手前の宮内串戸で降りる。次の電車を待つ間ベンチに座って空を眺める。まだらにオレンジがかった空がきれいで、遠くに見える低い住宅地を見てちがう街に来たことを実感する。隣に女子中学生二人組が座る。学校の制服、部活帰りのようだ。さてはと思って会話を聞いていると、やっぱり広島弁で話している。一人が電話に出る。

「チャリじゃけ先帰っていいよ。・・・チャリじゃけえ先帰っとっていいよ。・・・チャリ!ウン、じゃけえ先帰っとっていいよ。はい、ウン、じゃね。」
「だれ?」
「おばあちゃん」
「おばあちゃんって、しゃべるのたいへんよね」
「ずっと、なに?!なに?!て言いよる」

電車が来て、次はちゃんと宮島口で降りる。まちをじんわりと闇が囲みだし、もう夜の準備が始まっている。ホテルはすぐ近くにあった。海は本当にすぐそこだ。名前を言ってチェックインを済ます。フロントの人がにこやかに応対してくれ、現地の水のペットボトルをくれ、朝食の説明をしてくれる。朝食は、左手に見えるレストランで6:30からです。特にチケットはないので、お時間になったらいらしてください。

部屋に入り、重たい荷物を置いて一息つく。iphoneを充電して、ベッドにとりあえず寝っ転がって、時計を見ると時刻は19時を回ろうとしている。電車を降りる時に、駅員さんに「フェリーは22時までやっている」と教えてもらったので、あまり焦らなくてもいいかと思う。IKEAのリュックを小さい方だけにして、いるものだけ整理して、夜の宮島へ向かう。

フェリーは一時間に何本も運行している。2社がそれぞれ15分置きくらいに運行しているし、宮島は目と鼻の先で、こちらへ来るフェリーも見えるので、ゆっくり待つという感覚はない。180円払って切符を買う。フェリーがたった180円で乗れるということに無性にわくわくする。乗り場に行くとおばさん二人組が待っていて、一人の少女に、切符売場はあっちと教えている。少女はどうやら日本人ではないらしく、たどたどしい日本語で感謝を述べて切符売場へ向かう。大丈夫かしら、通じたかしら、あの子ちゃんと理解してないんじゃなあい、だってホラ、切符売場に姿見えないもの、もしかしたら間違って電車の切符売場に行っていないかしら、ええ、困ったわねえどうしましょう、などとおばさん二人はずっと心配している。そんなに言葉を並べたてて心配するのなら、切符売り場なんてすぐそこなのだから一緒にいってあげればいいのにと思う。そういじわるに考えてしまうのは、声に「私のせいにされたら困るわ」という気配を感じたからだ。もやっとした気持ちを抱えていると、少女が戻ってくる。切符を手に持っている。おばさんたちは彼女の切符をじろじろと確認して「あれ、これかしら?!あ、うん、大丈夫ね」「あってるあってる」と言って満足そうにフェリーに乗り込んでいく。

潮の臭い。ぐらぐらと揺れる足元。少しだけ遠くなる街の明かり。海だ。ところどころ天井には蜘蛛の巣が張られていて、それぞれを管理する蜘蛛がいったりきたりしている。屋上デッキには出られないことを知って少しがっかりする。側面の手すりから身を乗り出して海を眺める。海は夜を吸収して黒く、ゆらゆらと輝いている。やがて水しぶきをあげて動き出す。白い飛沫の模様をつくり、先頭からは時折思い出したように水がごぼりと吐き出される。この波の模様に名前はあるのだろうか。沖がだんだんと遠くなり、いよいよ海上にいる感覚が強くなってくる。じっと海の表面を眺めていると、実は海は水ではなくて巨大なゼリーみたいなもので、その弾力で受け止めてくれるのではないかという気がしてくる。飛び込んで確かめたい衝動に駆られる。視界を遮っていた前髪を一本抜いて、それを海へ落とす。髪の黒は海の黒に溶ける。わずかな自重を重力にあずけ、ゆっくり飲み込まれていく。身を乗り出して目を凝らしても、途中で見失う。まっすぐに落ちていったらしいことだけが分かる。音もせず、波紋もつくらず、でも確実に、わたしの一部は海の一部になる。

ものの10分程度で、到着のアナウンスがある。揺れることがあるのでどこかにつかまるように指示されるけれど、揺れることもなく、到着の区切りがぼんやりしたままフェリーを降りる。宮島に到着だ。
港を出て駅を通り抜けると、開けた広場がある。道沿いには旅館やおみやげ屋さんの明かりがぼんやり灯っている。地図が読めないのでなんとなくこちらかなという方向に歩き出す。歩くとすぐに、暗い広場のところどころに何か黒い塊がうごめいているのが分かる。鹿だ。ごく普通に鹿がいる。宮島に、鹿がごく普通にいることを知らなかった。野良猫とか野良犬のように普通に生活している。石垣に座って、目の前に警戒心なく寝そべっている鹿をしげしげと眺める。鹿はチラッとこちらを見たが、面倒くさいし興味はない、という様子でじっとしている。鹿の目は、ヤギみたいに四角くて怖い感じではなくて、もう少し輪郭のぼやけた親しみやすい形をしている。鼻が時々ひくついて、甘酸っぱいような臭いがする。立ちながら、時々何でもない様子でコーヒー豆みたいなうんちをぽろぽろ落とす。一匹のオス鹿がメスの鹿をずっと追いかけながら、始終悲しそうな鳴き声をあげている。メスは嫌そうに逃げまわり、時々オスが近づくと怒って威嚇する。オスは一層悲しげに鳴く。人間の世界で考えれば、二匹の間はうまくいかなそうな様子だけれど、鹿の世界はどうなのだろう。

砂利の音を立てながら海沿いに歩いて行くと、赤い大鳥居が見えてくる。ライトアップされ、赤いゆらめきを海に落としている。厳島神社。側には鳥居をくぐれる屋形船がつけていて、乗っているひとたちが次々と写真を撮っている。正面から見るためには厳島神社に入らなければいけないのだが、夜は閉まっていて入れない。フランス人らしい旅行客の少女が鳥居を見て何か言っている。また少し肌寒くなって、着ている青いウインドブレーカーを一番上までとめる。屋形船が鳥居をくぐっていく。歓声が上がる。かすかに潮の匂いがする。

ここはきっと、朝が綺麗だろう。明朝また来ることにして、鹿のあとをゆっくり歩いたりしつつ港の方へ戻る。表参道らしき通りもあるが、店は既に閉まっている。郵便局の前の石畳を、鹿がくんくん匂いを嗅いで歩いている。本当に犬と変わらない。きっと数日立てば何でもない光景になるのだろう。もし、野良ゾウとか野良キリンがごく当たり前にいる街があったら、そこもやっぱり数日で慣れられるものなのだろうか。そんなことを考えている間にお腹が空いていることに気づく。思えば新幹線で食べたパン以来食べていない。気づいた途端お腹が空いたことしか考えられなくなり、牡蠣やあなご飯やもみじ饅頭ののぼりの文字で視界が埋め尽くされる。もしかしたらホテル近くのお店も、もう閉まっているかもしれない。観光地のとっとと暗くなってしまうスタイルはどうしても苦手。仲良くなる前に置いてけぼりにされた気持ちになる。

行きとは違う会社のフェリーで帰る。行きと違って、時間も時間だからか帰る人は多い。同じように人が乗り、同じように船出する。闇はさらに濃くなって、フェリーの中と外をくっきりと縁取る。そこには深い闇がある。緑が茂っているだろう遠くの島も、黒く塗りつぶされた一つの塊となって現れる。島の周りを一定の間をおいてオレンジのランプが点滅し、場所を知らせている。明るくなればなんでもないものも、それぞれが凄みを持って立ち現れる。

フェリーを降り、何を食べようかということで頭をいっぱいにしたまま街を見渡す。先程までやっていたお店もところどころ閉まり始めている。迷っている時間はないので、あなご飯一択にしようと胃袋を決める。いくつかさまよって温かそうな店に入る。瓶の宮島ビールとあなご飯を頼む。頼んでからあなご飯には「特上」もあることを知り、それをお店がおすすめしていることを知る。メニューの見え方を変えたらきっと売上が上がるのに、特上の方を写真にしたらきっとみんなそれを頼むのに、と思う。思っている間に宮島ビールと小さなグラスが運ばれてくる。小さなグラスは冷えていて白く曇っている。泡が強く、勢いをつけて注いだら盛大にこぼし、お手拭きをもう一つもらう。泡とビールが9:1くらいになったものをちびちびやっているうちにあなご飯が運ばれてくる。香ばしくてご飯にかかったタレもおいしい。あなごとうなぎって何がどう違うんだっけと考えながら、座敷で盛り上がっている家族をぼんやりと見つめる。子どもがビールをつぐのが上手だと褒められていて、小さいころからお酒と大人のそばにいるのも粋だなと思う。カキフライを追加で注文する。途中でお腹がいっぱいになったが、すべてたいらげ、お店を出て、そのままホテルに帰る。

ホテルに帰るとやることがない。「海辺のカフカ」を読みたいという気持ちも、もうどこかに言ってしまった。さっと着替えてふとんに潜り込んで、始発のフェリーを調べる。6:25。日の出とともに起きる必要がありそうだ。いつ寝てしまってもいいようにホテルの目覚ましをかけて、枕元のスイッチを適当につけたり消したりしていいと思った明るさでやめ、ふとんに潜り込む。ホテルでもらった水を飲んで、目を閉じる。

夜中、何度か起きて、自分が横向きに寝ていることに気づく。久々の寝相の悪さだとぼんやり思いながらまた眠りにつく。
そしてあまり見たくなかった夢を見る。

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