『食べてしまいたいほど愛しい』の意訳

推しさんの芝居を観に行った。

その人に会うのは当時で3回目。


19年の8月末に知り合いが人生初めての芝居をやり、それを観に行った。
その人はアイドルで、道の場所で芝居をやるというのだから私はついつい見に行った。
知っている演者は知り合い以外にはおらず、ほかの演者さんも普段なにをしてる人なのか詳しく調べてみたらその”推しさん”がいて「あ、この人も俺と同じ美大生なのか、そうなのかあ」と知った。
そのタイミングでは面会でその方とお話しはせず、そのまま会場を後にした。

二度目は7ヶ月後。

2020年の3月中旬に8月当時のメンツが数人集まって4-5人で芝居するというもの。

改めて、アイドルだった知り合いがいない状況。

贔屓目を除いて見てみると、切れ目で鼻筋のくっきりした人で、綺麗だなあ、って印象。
その人が愛の重い女性(メンヘラと簡単にいってしまえばそんな感じ)を怪演というように演じていて、それが顔立ちにすごく似合っていてとても魅入ってしまって、次回もこの人の出演する公演に観にいきたいと思った。


三度目の舞台は9月に見に行った。
その時もヘラってる(本当はもっと深く話をしたいのだがこの記事を読みやすいように安直な言い方をしておく)そんな役をされていて、この人はこういう役回りが天職なんだなと感じた。

その日の芝居は30分ほどのもので、後になってアフタートークとして彼女がいかに芝居に手を加えたかについて話してくれた。

聞いてみると、原作にはない表現追加として
・愛情表現の過剰な女性
・独占欲の高い女性
を個人的に加えたのだという。

芝居の流れとしては、

”だらしない夫への不満を連ねる女性語り”

だが、それを「私が面倒を見てやらないと」と言い出してしまう妻。そのような内容。



彼女はこう言っていた。

「私は、
『食べてしまいたいくらいに好きだ』
というような詞が大好きで、そう言ったものに触れてきました。倫理的にダメなことでも芝居でならできる。さすがに人は殺せません。笑」


この時の彼女がいう

「食べてしまいたいくらい好きだ」

がすごくなまめかしいもので、ぞくぞくする。



彼女は昔から、『食べてしまいたいほど好きだ』という棘々しい表現が大好きだったそうで、

歌詞で共感できるもの、文学作品で共感できるものをひたすら吸収しに行っていたそう。

その吸収が作用して、彼女の今の表現に生きているのをとても強く感じた。
エンタメは没入することにこそ面白味があるし、その偶像になりきることにも意識が向く。


自分はその芝居を見た後に原作を調べ、

これらをインプットの一つとして取り入れたが、
この芝居を見た自分の中にも彼女の棘々しさが棲みついているのを感じる。

実は、この女優さんの芝居を見て『調べてインプットする』という工程は

『食べてしまいたいほど愛しい』のように

この人を実質的に食べているのでは?ということに、はっと気づく。



本当に好きなもの・愛しい人を食べたいほどに愛すということは、そういったコンテンツを取り入れ真似る事で、体の中に取り込まれる。


精神的な食人はここに生まれるのかもしれない、と感じた。


「好きを取り込む行為」は軽度なカニバリズムで、それは倫理的におかしいものではない気がした。

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