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哲学の今日的な存在意義とは~対話こそが哲学の基礎~

自然科学は哲学と歴史的にはギリシャの時代から根っこはいっしょと言われます。ニュートンの出世作のプリンキピアは、副題は「自然哲学」です。
科学は哲学という主観的価値観から完全に独立「客観的」なものでは必ずしもありません。パラダイム(概念的枠組み)依存性の高いものです。

現代人は権威ある学者から、これが「科学的」と言われたら、皆、特に科学アレルギーのある方は、黙ってしまい思考停止に陥っていますが、科学=客観的=否定できない、というのは幻想です。

科学はパラダイム(思考と理論の枠組み)というものから制約を受けてその枠から出ることは思考にタガがはめられているようなもので容易にできません。
既存のパラダイムでは説明できない事実が誰の目にも明らかになって、いわゆるパラダイムシフトが起こって、飛躍的な進歩が起こるのです。

今や、科学(science)と技術(technology)は今や一体のモノになっています。技術は科学を正しく「倫理的」に応用すれば、すべての人類に幸福をもたらすというナイーブな考えもありますが、現実は必ずしも、そうなているわけではないことは、原子力技術技術や遺伝子組み替えなどに関して明らかです。

現代科学技術文明への過信と依存を、批判的に見ることが大事です。しかし全てを否定して思考停止になるのも良くありません。
今こそ普通の人が、環境破壊を助長してきた科学技術(原子力はその典型)を監視し、専門家(学識者)に判断を丸投げしないことが重要です。

依然、世界には大きな格差や不平等が存在しています。人間の生き方や社会のあり方と科学や技術をもっと総合的に捉える視点が必要ではないかと思います。それこそ哲学の現代における存在意義だと考えられます。

原発の是非や、GMO(遺伝子組み替え作物)、捕鯨の問題など、科学者が、社会を支配する価値観から全く独立して思考し、正しい判断をするとは限りません。
科学と政治が癒着した原子力村の構造から多くの人がそのことに気づいたと思います。科学が中立公正客観というのは神話に過ぎないのです。科学は価値観(世界観)に強く依存しています。しかも人間の宿痾であるエゴイズムが科学界に巣食っています。そこにはお金や名誉・地位が深く絡んでいます。研究費の獲得や成果主義はまさに政治的要請(もっと言えば、お金の使途を決める権力構造)に依存しているのです。

科学の発展や応用が、この政治経済の原理に左右されていることは明らかです。第二次世界大戦末期にマンハッタン計画(核兵器開発)に多くの一流の科学者が動員されました。

また、過去の偉大な哲学者の本を読んで、解釈するだけが、哲学のすることではありません。日本には哲学史家(誰々哲学者の著作を原語で読んで講釈する人)はいても哲学者はあまりいないのではないでしょうか?
もちろん過去の優れた哲学者は時代を超えた普遍的な思想を唱えています。それから現代人が重要な何かを学べることは確かです。日本には西田幾多郎の京都学派など独自の哲学はありましたが、彼らも戦争に思想的に加担したことを忘れてはなりません。

●哲学の持つ存在価値・意義とは?

(1)いわゆる常識と言われることに対する健全な批判精神

(2)ファンダメンタルな(根本的な)正しい問いを立てること(よく生きるとは何か?など)

(3)無知の知(ソクラテスが言っているように、まだ人間はこの世界や宇宙のごく一部の真実しか知らないという謙虚さ)

(4)生活の現場からの発想や体験に基づいた、論理(言葉)の構造化

(5)デベート(討論)ではなくダイアログ(対話)という方法論を重視する

(デベートは勝ち負けの二元性Dualityの世界です、二元性は自然か人間かとか、物質か精神かとか「分離」を進めてきた思考です。あれかこれかではなく、あれとこれをどう統合してくかが大切なのです。
分離の二元性思考は世界で繰り返されてきた破壊的な原理主義同士(イスラム教vsキリスト教や資本主義vs共産主義)の闘いの根っこにあり、相手を否定し、レトリックを巧妙に駆使した詭弁術を通じて打ち負かすことにに繋がっていきます。政治家同士の国会討論や米国の大統領選挙で行われる候補者同士の討論会はその典型です)


一方、対話(ダイアログ)は互いを尊重しつつ、傾聴し合い、相手から学ぼうとする姿勢を持って、新しい価値創造と共進化、transform(変容)する方法です。対話では両方が勝者であり敗者はいないのです。
さて、デンマークは、日本と同じオイルショックの時期に、資源のない自国(本当は風という資源があることに気づいた)のエネルギーの国策をどうするか、国民的議論を行いました。
各地で原発に対して賛成、反対の人が、集まって何度も学習会を開き、そこには賛成の立場の専門家と反対の立場の専門家を両方を同じ場に招き、話し合いの資料も両者から提供されて情報基盤を共有し、中立公正な進行で、「対話」を重ね、最終的に原発の導入はしない、 風力発電などの代替エネルギーを大幅に伸ばすという決定につながったと聞いています。
そのプロセスに学ぶことも重要ですね。

デンマークの市民協同組合で建設した洋上ウィンドファーム

このように哲学的思考の習慣と民主主義は深く繋がっています。民主主義の根本は、選挙の投票や多数決ではなく、少数意見も排除しない対話(熟議)を通じた合意形成だからです。
皆が同じ土俵で、同じ情報を共有して、自分で考え、対話して、合意を形成した、まさにそのプロセスそのものが「哲学的」といえます。古代ギリシャの大哲学者のプラトンの著作はすべて、対話形式でしょう。哲学の本質はこの対話にあります。
ドイツで脱原発政策で3.11直後にメルケル首相が舵をきったのは「倫理委員会」という"原子力専門馬鹿"の委員会ではない哲学者や社会学者達が参加した委員会の結論に基づいていたということがたいへん印象的です。そこでの結論だった世代間倫理(将来世代に放射性廃棄物の漬け回しをしてはならないということ)という問題こそ、原子力利用の「非倫理性」の根拠となりました。さすが、西洋哲学をリードしてきたドイツです。ファンダメンタル(根本的)な思考を基盤に未来を選択したのです。

人間と地球の間の関係性のパラダイムシフトが求められてます。人類は地球のケアテーカー(世話役)だということです。地球の進化とは、人間の進化と一体のものです。だから急進的なディープエコロジストが主張するような人間は地球の寄生虫で人間さえいなくなれば地球環境が保護されるのではなく、地球のなかで、人間もかけがえのない一部である。人間とは、この地球において一体、何なのかを解明することが現代哲学の最も重要な問いの一つではないでしょうか。この地球において、知的生命体として高度に進化した人間(人類)には大切な役割がある。それは一体何かという問題です。


「エコシステム」では、すべてはつながっています。すべてのものは繋がっていてひとつであるということを仏教では「空」といます。この「空」こそ新しい地球観・人間観を解き明かす鍵になると思います。
そして宮崎駿アニメに通底しているアニミスティックな世界観、すべての存在には神(魂(spirit))が宿っている、仏教(法華経)では一切衆生悉有仏性です。衆生とは人間だけでなくすべてのいのちであるということを忘れてはなりません。
そして、フィロソフィー(philosophy)の語源はご存知の通り、知(sophia)を愛する(philos)ということ、それは真善美を愛することです。知は知識というより智恵(英知)です。利益(interest)=お金を"愛している"というか、執着し囚われているのが今の歪んだ「金主主義社会」でしょう。同じinterestが、興味関心という意味もあるのが面白いですね。


ドイツの哲学者・ヘーゲル

さて、哲学の要諦である「対話」は、正・反・合で知られるヘーゲルの「弁証法」(dialectic:これは対話のdialogueと同じ語源です)として西洋哲学の中で確立しました。異なる対立する意見を持ったもの同士(正(テーゼ)と反(アンチテーゼ))が対話を通じて、相互が自己変容し、「合」というより高度に統合された創造的合意に達するアウフヘーベン(aufheben,=止揚)される過程そのものが、哲学です。哲学の本質は論争の勝ち負けではないんです。賛成(肯定)と反対(否定)を超えた解決策を見出すのです。
もちろん強いものに弱いものがおもねることでもありません。原子力村の御用学者は哲学的思考とは真逆の「曲学阿世の徒」(真理を捻じ曲げて、世の人や権力におもねる学者)ですね。
日本人は弁証法的な思考や対話の習慣が全くできていません、学校教育は対話ではなく、知識の詰め込みだけやっています。ここに問題の根っこがあります。自分で調べて、自分で考えることをさせないのが学校か?最近はサンデル教授やらのテレビの影響でかディベートが必要などという訳の分かっていない輩がいて、益々ずれていきそうでやばいですね。
だからこそ、子供たちが学校教育の過程の中で「哲学をする」ことに極めて大きな意義があると僕は考えています。

*執筆者:能村 聡

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